辻邦の棚   短編集
  

 詩人の夏子さん

 

 「あたしの父ちゃんは、詩人だったからね、2月生まれのあたしを夏子って名前にしたんだよ、さんさんと太陽が輝く夏が、陽気でいいやって」

そういって、夏子さんはガハハッと笑った。

夏子さんは、私の弁当工場のパート仲間。

仲間といっても、私のおばあちゃんより年上。

お昼の休憩時間に、私は夏子さんの話を聞くのが好きだった。

                                   

 「夏子さんって、有名な詩人の娘なの?」

 「違うよ。詩人っていうのは例え。うちの父ちゃんは、看板書きで、朝からビール飲んで、ゴロゴロ横になってる自称病人」

 「何の病気?」

 「怠け病」

 そこで、私は夏子さんと声を合わせて笑ったよ。

 「時々、仕事が来ると起き上がって、立て看板を書いたり、表札を書いたりしていた。仕事の腕は上等だって、看板屋の社長は言ってたけどね、あんまり働かない。ほら、根が病人だから、怠け病の」

 夏子さんの話は陽気だった。

 「でもさ、時々ボーっと空を眺めて言うんだよ。

 おうい くもよ
 ゆうゆうと
 ばかに のんきそうじゃ ないか
 どこまで ゆくんだ
 ずっと いわきだいらの ほうまで ゆくんか

って。詩人だろう」

 うん、確かに詩人だ。

 「山村暮鳥の『くも』って詩だよ。いわき平は地名。でもこの詩を聞くと、心が広々として、嬉しくなった」

 夏子さんは、お父さんが好きだったんだと思う。

 「私の母ちゃんは、近所の喫茶店に勤めていてね。サンドイッチを作るとき出るパンの耳を持って帰ってくれた。これがあたしのご飯。おかずは、チーズと生野菜。父ちゃんのビールのつまみはクラッカーにチーズを挟んだのか、生野菜にみそ付けたやつだったからね」

 パンの耳とチーズと野菜スティックで育った夏子さんは、可哀そうみたいで、おしゃれ。

 「その父さんが、太陽がさんさんと輝く夏の日。駅前の上田質屋の看板を書き換えることになって…。その質屋には、散々お世話になってたから断れない仕事で、出かけて行ったのよ。玄関の上の立派な看板でさ。足場を組んで、高いところで仕事をしたんだ、夏の暑い日」

そういいながら、夏子さんが汗をぬぐうそぶりを見せたのが印象的だった。

 「その晩、父さんは高い熱を出して、息を引き取った。コトンと、あっけなく。今思えば、熱中症だったんだね。あたしが小学六年生の夏休みの事さ」

「えっ!死んだの?おとうさんが?」

 「うん。そうしたら、すぐに母さんが、喫茶店のマスターと一緒になった。嫌な奴でさ、そのマスターが。あたしは嫌で嫌でたまらなかった」

 そう話す夏子さんの目は、少女の目になっていた。

 「でも、詩を見つけたのよ、あたし。

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……     

 知っているでしょ?中原中也よ」

私は、聞いたことがあるような、無いような…

「これを何度も何度も小さな声で詠んでいると涙が出て、
悲しい気持ちが流れて行った」            

詩を空で言える夏子さん…。

 「それから、高村光太郎の『道程』にも出会った。

僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

 気がくしゃくしゃしたときは、『くも』の詩。悔しくて、悲しい時は『汚れちまった悲しみは…』そして『僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる』って、歩き出す。暮鳥と中也と光太郎がいたから、何とか生きてこれた。父さんが詩を教えてくれたから頑張れた」

 頑張って何とか生きてきた夏子さんの人生…。

 「でもさ、それでもどうにもならなかったら、私は詩を書こうと思ったよ。
 あたしの為に詩を書こうって。
 詩人になるぞーって」

 

 そんな夏子さんとの縁は、あっけなく切れた。

 弁当工場が、食中毒を出して突然閉鎖されたのだ。

サヨナラも言えない別れだった。

 私に暮鳥さんと中也さんと光太郎さんを紹介してくれた夏子さん。

詩人の夏子さん。

 


   
辻邦の棚  生田きよみの棚  青山和子の棚 
短編 長編 お薦めの一冊 
お薦めの一冊   短編  本の紹介 

   
 著者紹介  著者紹介 著者紹介 
    
 ご意見、投稿、お待ちしています
アドレス kuni@aktt.com
fecebook やっています。