生田 きよみ の棚   読み切り
  
「 北極から 

 

  つむぎは本箱にもたれ、両ひざを立ててすわりこんでいた。ひんやりとしたフローリング

の床から冷気が這いあがってくる。

 おじいさんの机の上は、ほこりがつもり、つむぎが使ったおもちゃ、絵本、片耳がとれたプ

ーさんやアンパンマン、ゲーム機が入った箱などが乱雑に置かれ、おじいさんのベッドには布

団や毛布、衣服が山のように積まれている。部屋のすみには紺とベージュのゴルフバッグ。バ

ッグを見ていると、おじいさんの声が聞こえるようだった。

「行ってくるからな。ゴルフ場、今日はイノシシが荒らしてないといいが」

おじいさんはびっくりするつむぎの顔を見て面白がるように笑った。

おじいさんが亡くなって半年。おじいさんの書斎はすっかり不用品置き場になってしまった


「つむぎ、お昼ごはんだよ」

 階下から、お父さんが呼んだ。つむぎは床の白クマのぬいぐるみを膝にのせる。

「つむぎちゃーん、たこ焼きなの。手伝ってくれる?」

 お母さんの声だ。つむぎは白クマをぎゅっとだきしめた。

「そのうち降りてくるだろ。いいよ、先に始めよう」

「ちゅむたん、ホッコク?」

 りぼんがまわらぬ舌でいう。

「シッ!」

 まゆをひそめて、人差し指を口にあてるお母さんの顔が見えるようだ。

 

 十年前、おばあさんが亡くなってからおじいさんはずっとこの家で一人暮らしをしていた。

 つむぎのお母さんは四年前、交通事故で死んでしまった。                
 それでお父さんとつむぎはおじいさんのこの家に引っ越してきたのだった。そして二年前お

父さんは、今のお母さんと結婚した。

 おじいさんはなにも言わなかった。お父さんとおじいさん、つむぎは三人だけでよかったのに。

 

 赤ちゃんのりぼんが生まれた。

 おじいさんは、寝室にしていたリビングの隣の和室をりぼんに明け渡した。

病院から初めてここに来た時だった。明るい日を浴びた赤ちゃんはあくびをしたり、ほほえ

んだり。見ていてあきなかった。

「わたしの時もこんなだったかな」

マシュマロのようなほっぺたをつついてみた。

 「つむぎちゃん、手、洗った?りぼんはまだ赤ちゃんだから気をつけてね」

 お母さんはさっと、りぼんを抱き上げた。

 そこへおじいさんが来た。

「だいじょうぶ、赤ん坊は少しのことで病気になったりしないから」

 お母さんはあごをとがらせ、りぼんをだいて足早にいってしまった。

「おいで、つむぎ」

 おじいさんは階段をのぼり自分の部屋へ誘った。

「おじいさん、どうしてこんな北の部屋になったの。おじいさんの家なのに」

「一階の和室は日当たりがいいだろう。赤んぼうは南の部屋で育てたほうがいいんだよ」

「わたしの四畳半とかわる?」

「大丈夫だよ。おじいさんはこの北の部屋が好きなんだ。お前たちが来る前は書斎としてだけ

使っていたがね。ベッドを入れてもまだ広い。家族が増えたんだ。みんなで協力しなければね

。つむぎは本当にやさしい子だなあ」

 おじいさんはつむぎを抱き寄せた。ポロシャツからお香のようなにおいがかすかにした。

「つむぎが大きくなったら、ここの本読んでほしいな」

 大きな本箱にはぎっしり本がつまっている。難しそうな本ばかりだ。

「読書はいい。色々な世界にとんでいける。登場人物たちと話ができる。冒険ができる。楽し

んだり、悲しんだり・・・・」

 おじいさんは目を細めて本たちをながめた。いつか、きっと読んでみたい、つむぎは強く思った。

 つむぎが二階に上がると、おじいさんはいつも読書をしていた。背筋を伸ばして机の上に本

を広げて。つむぎは声をかけづらくて、じっと立ったままのこともあった。

「寒いから入りなさい」

「おじいさん、ここ北極みたいだね」

 おじいさんは大きな口をあけてあっはっはと笑った。

「北極か、いいねえ。これからここを北極と呼ぼう。白クマはいないけど」

「ある、ある、まってて」

 つむぎは自分の部屋から、ぬいぐるみを持って来た。去年の夏、お小遣いで買った白クマの

抱きまくら。タオル地でできていて、水色のベストを着ている。ベストはサラサラした生地で

、抱くとひんやり涼しくて気持ちよかった。真っ黒のまん丸い目。つやつやと光ってとても可

愛かった。つむぎのお気に入りだ。

「おじいさん、これだよ、白クマ」

 つむぎがさしだすと、おじいさんは目を輝かせた。

「おお、いいねえ。これで本当の北極になった。名前、ついてるか?」

つむぎが首をふると、おじいさんが言った。

「イワンはどうかな。ロシア文学でよくある名前だ。ロシアは北極に近いし」

「いいよ、イワンに決まり。きみはこれからイワンだよ」

 つむぎはイワンの黒い鼻をつついた。

つむぎはそれから北極が大好きになった。イワンをかかえていりびたった。おじいさんは本

を読んだり、書き物をした。つむぎは本箱にもたれて、学校で借りてきた本を読んだり空想に

ふけった。テレビで見た北極。一面の氷。白クマがゆっくりゆっくり歩いている。そばに横た

わっているイワンを重ねた。

おじいさんとなにもしゃべらない日もあった。でも、ここにくるとなぜか心が落ち着いた。

 

 四年生になったばかりの連休。みんなで近くの公園に行った。欅の新緑が光をあびて光って

いた。道の両側は白やピンクのはなみずきの花が満開だった。

 つむぎの前を歩くお父さんとお母さんとりぼん。まんなかにりぼん。左右の手をしっかりと

つないで。

「ほうら、いくよ!」

 お父さんとお母さんがりぼんの腕を持ち上げた。りぼんの両足が宙にうく。りぼんはきゃー

きゃー笑った。青い空、木々の緑。三人の親子。完全な一枚の絵みたいだとつむぎは思ったと

たん、胸がおさえつけられるように苦しくなる。

「お父さん、わたし、帰る」

スカスカの声しか出なかった。お父さんが振り向いた。

「どうした、つむぎ。おなかでも痛いの?」

「あら、せっかくお弁当持ってきたのに」

「ごめん、朝からおなかが痛かったの」

「残念ねえ。りぼんも楽しみにしてたのよ。公園でつむぎちゃんと遊ぶって。でもおなかが痛

いんじゃしかたないわ。家におじいさんがいるから、大丈夫よね。おにぎりたくさん作ってお

いたから、一緒に食べてね」

 お母さんはすぐ前をむいて歩き出した。お父さんとりぼんはつむぎを見つめていた。

 家に帰るとすぐ北極へ行った。

「おや、つむぎ、もう帰ってきたのか」

 おじいさんはめがねをとると、かがんでつむぎの顔をじっと見つめた。

「よし、今から味噌汁をつくろうか。お母さんがつくっておいてくれたおにぎりと味噌汁、漬

物。うまいぞ」

 おじいさんは煮干しでだしをとると、大根と人参を切って鍋にいれた。

「おじいさん、料理できるの?」

「もちろん、おばあさんがいなくなってから、ひとり暮らしが長かったからな。そうだ目玉焼

きも作ろう」

 あっという間にできた。庭のテラスにレジャーシートをしいて、お盆におにぎりや目玉焼き

、味噌汁をのせて運んだ。

「遠足に来たみたいだ」

 おじいさんは豪快におにぎりをほおばり、味噌汁を飲む。太陽がおじいさんの白髪を照らす

。つむぎの胸にも光がいっぱいはいってくる。おじいさんは目を細めて空を見上げたり、庭木

をながめた。そして、ひとりごとみたいに言った。

「つむぎ、いつかは北極から出ていかなくてはな」

 つむぎはなにを言っているのかわからなかった。

「大丈夫だ、きっと。つむぎは強い子だ。おじいさんは信じてる」

 おじいさんはつむぎの顔をじっと見つめた。おじいさんの目はとても静かだったけれど、今

まで見たことがないような厳しさをたたえていた。北極から出る?つむぎはおじいさんに聞い

てみたかったがなにも言えなかった。ただおじいさんを見ていた。おじいさんの目がふっとゆ

るみ笑みがこぼれた。そしたつむぎの背中を大きな手でなでてくれた。

 

おじいさんの思い出をたどるときりがなかった。

 おじいさんはおしゃれできれい好きだったのに。部屋は物置になってしまった。生きていた

ら悲しむだろうな。いいや、「大丈夫だよ、生きてる人が一番だ。変化するのが当たり前」と

いって、豪快に笑うかも。

 つむぎはため息をついた。

「ちゅむたん」

 階段の下でりぼんの声がした。つむぎは立ち上がった。見ると、りぼんが階段を五段ほど登

ってきていた。

つむぎは「階段上ったらだめでしょ」といってにらみつけた。りぼんはおびえた目をむける

と、つむぎを見ながらうしろ向きで階段を降り始めた。

「ギャ」

 りぼんは階段をふみはずして落ちた。

 一瞬、つむぎの心臓が止まる。急いで下へ降りると、倒れたりぼんを抱き上げた。りぼんは

大きな目でつむぎを見つめた。

「はい、どうじょ」

 りぼんはにっと笑うと、小さな右手を開いた。

 そこには、つぶれたたこ焼きが一つ。鼻さきにソースのにおいが漂った。

 つむぎはりぼんをだいたまま振りかえる。

 階段の上におじいさんがいた。おじいさんはひらひらと手をふりながら、北極へすっと消え

ていった。


                               終わり


 


       
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