辻邦の棚   短編集
  
 

「待ちぼうけ」

 「えっ!三ちゃん、死んでたの?」

夕刊を読んでいた、アサさんが叫んだ。

 「だれだよ、三ちゃんって」

 直ちゃんが、新聞をのぞき込んだ。

音さんも寄ってきた。

 ここは、喫茶店「カルテット」夜になるとご近所の工場の親父さんたちが集まってくる。板

金屋やら鉄鋼やらの小さな工場が密集する街だ。

紙面には、展覧会の解説が載っていた。



 テキスト ボックス: 三田 富彦 追悼特別展

 「三田って、あの三ちゃんかい?音さんの工場で奇妙な彫刻作ってたあの野郎」

 アサさんの言葉に音さんが深くうなずいた。

「俺もいろいろ手伝わされたよ、塗装とかさ」

 直ちゃんは、板金屋だ。

 「ああ、皆、良いように使われたな」

そういう直さんの顔は明るかった。

「へー、死んじまってたのか…」

 「まだ、若かっただろ?」

「ここにいたのは、20年前で」

「ああ、あのころで30前だったから…、生きていても50にはなってなかったろうにな」

そして、

「こんな有名な美術館で追悼展っていや、大した出世をしたんだろうな」

 と、三人三様に頷いた。

 三田富彦、三ちゃんは、音さんの工場の一角を借りて、作品を制作していた。

 「三ちゃんっていや、ノンコの良い人だった奴だろう?」

 と、割り込んできたのは、ボルト屋の徳さん。

  私は、女優になるために上京していらい、ここでアルバイトをさせてもらっている。

  店の主、マダムも、カウンターの中から出て来て話の仲間入りだ。

 「ノンコの良い人って、変な噂流さないでよ、ノンコは嫁入り前なんだから。三ちゃんには

恋人がいたんだからね。その人の紹介で、ノンコはここへ来たのよ」

  確かに。劇団の先輩の麗華さんの紹介でここにバイトに来たのだ。ただ、麗華さんが三ちゃ

んの恋人だとは、私は知らなかった。だって、麗華さんは、うちの劇団の演出家イノさんの奥

さんだったから。

  徳さんが口を尖らせて言った。

「変な噂じゃねーよ、確かに聞いたんだよ、この耳で。あの野郎がニューヨークへ行く前の

晩、ここへ来たときさ。帰りしなに『迎えに来るよ』って、ノンコへ言ってやがってさ。てっ

きり約束があったんだなーって思ってさ」

「そうゆう野郎なんだよ、あいつは」

 と、音さんが私に笑いかけた。

 私は、笑顔で頷き返した。

 

 「そうゆう野郎」かもしれないとは思っていた。

 麗華さんと駆け落ちするようにニューヨークへ行ったんだ。麗華さんが恋人だったんだ。

 「そうゆう野郎」だよ。

 でも、死んでしまったとは、知らなかった。とっくに日本に帰っていたとも知らなかった。

 元旦那のイノさんは、知っていた?

 彫刻家として成功していたのも知らなかったなんて…

 やっぱり別世界の人だったのだと、思った。

 でも、すごく悔しい。死んだのも知らなかったなんて!

待っていたの…私?

 「あいつは、人たらしさ。あいつに頼まれるとなんか手伝ってやりたくなってさ」

 「ああ、金にもならないのにね」

 「そういえば、音さん、家賃踏み倒されたんじゃなかったけ?」

 そういわれて、音さんが「てへへっ」と笑いながら、手を横に振った。

「踏み倒されてはいないよ、品物でもらったんだ。あのガラクタみたいな芸術作品でさ。『値

が出たら売って下さい』っていってな。三つばっかしあるかな」

「それってさ、凄くない?」

 と、マダムが皆を見回した。

 皆は、大きくうなずいた。

 「売れるかな?」

 「高く売れるぜ」

 「死んじまったから、余計高い値がつくよ」

  それからは、大騒ぎ! ビールで乾杯!乾杯!乾杯!

  酔っぱらった徳さんが、私に言った。

 「ノンコの次の公演では、ドーンとでかい花籠を贈ってやるってよ、なー音さん」

 音さんも真っ赤な顔で、叫んだ。

 「ああー、ここにいる全員の名前で、花籠を贈るぞ。めいめい、一籠づつだ」

 「野暮だね、町工場の親父の考えることは」

 と、鼻で笑ったのはマダム。

 「胡蝶蘭の鉢植え一つで良いのよ。でも、一つでも安かないわよ、五万円はするよ。そして

、送り主は三田富彦」

 マダムの提案に、皆は「おー」と歓声を上げた。

  それ、嬉しいけど…。恥ずかしいかも。だって、うちの劇団の次回作は「魔界の親指姫狂想

曲」で…。私はモグラの婆さんの役なんだ。


   
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