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                       「温泉旅行」

 

 「プファー、極楽、極楽!」

 缶ビールを一口飲んで、直美はのけぞった。

 金曜日の夜のこの時間が、直美の極楽タイムだ。

 「どれどれ、今夜の旅行は…」

 そう独り言を言いながら直美は、旅行会社からもらってきたパンフレットを開いた。

 《日本が世界に誇る豪華客船・飛鳥Ⅱで行く初夏の北海道»

 (へー、船旅か、悪くないね)

 《客室は、全室海側・バスタブ付き»

 (海を見ながらバスタブにつかるんかい!極楽過ぎる―)

 直美の目は、料金表へと移る。

 「Aスイート484000円」

 (484000円って、あたしの給料3か月分だよ?これは無理)

 直美は保育士で、認証の保育室「たんぽぽ」で働いている。専門学校卒業後3つ目の職場だ。給料はやや低いが、二歳児までを預かるこの職場を直美は大いに気に入っている。

 専門学校を卒業してすぐ、直美は老人介護施設「常盤園」に就職した。「常盤園」を選んだ理由は、夜勤がある分給料が良かったからだ。

 両親二人共「劇団員」の直美の家は、経済的に不安定で、高校進学の時から学資ローンを借りた。専門学校へも有利子の奨学金で通った。

 ともかく1日も早く学資ローンという名の借金から逃れたいと思った直美は、若さと体力に任せて介護の鬼となって働いた。

 学資ローンを払い終えて、直美は意気揚々と保育園へ転職。

 しかし、直美にとって夢だった保育士の仕事は、地獄だった。保育士として要求されるスキルについていけないというか、情操教育の充実がモットーの園で、直美のピアノの実力は論外だったのだ。

 それで直美は、ピアノを弾かなくて済む「たんぽぽ」に転職。

 「船旅は諦めて…、やっぱりバス旅行かな…」

 直美は、ビール片手にパンフレットのページをめくった。

 《日頃のご愛顧に感謝を込めて・びっくり下呂温泉》

 (下呂温泉、39000円!ゲロゲロ、びっくり!)

 一人でおどけて、一人でうけて、ビール効果で直美は上機嫌。

 《北・南・中央アルプス贅沢風景と温泉かけ流し。天空の絶景!新穂高・北八ヶ岳・駒ヶ岳3つのロープウエイ»

 (おー、新穂高ロープウエイ!駒ヶ岳ロープウエイ!北八ヶ岳ロープウエイ!気持ちよさそー!)

 気に入ったという風に紙面を見まわし、出発日を確認する。

 「だめだ、あたしのスケジュールに合わない、残念でした」

  スケジュールが合わないのは分かっていたのだが…。

 保育園が休みの土曜日と日曜日は、直美は「常盤園」でアルバイトをしているのだ。お金の為だけでもないバイトだ。

 新卒で出会ってから13年。すでに88歳を過ぎて「常盤園」で直美を待っている佐々木さんやまり子さんの事を想うと…。

 「温泉旅行どこじゃないでしょ」

 そういって、直美はパンフレットを閉じて立ち上がった。.これが、いつものお約束。

 温泉旅行へ行くとしたら…と旅行パンフレットを眺めるだけのお楽しみ。

 これから、「温泉の素」を入れて、のんびり入浴だ。

 「園長からお土産にもらった温泉の素があったよね」

 洗面台の下を探って、直美は見つけた。

 「温泉の素 オテル・ド・マロニエ 下呂の湯」

 「極楽、極楽!」

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