辻邦の棚   短編集
  「藤崎の子」
 

 「もう少しよ。がんばろうね」

 私は、大きなお腹をかばいながら、坂道を上った。

 登山靴の下で、砂利がギシギシと鳴る。

 お腹に赤ちゃんがいる状態での登山は危険だとは思ったが、私はどうしてもここへ来たかった。確かめたいことがあるのだ。

 6歳の時に上ったこの山。

 いや、23歳の今の私にとっては、山というより少し急な坂道だ。人通りのない寂しげな所という記憶は当たっていたが。

 立ち止まり、あたりを見待たすと、左手に沢の方へ続く細道があった。かすかに、川のせせらぎが聞こえる。

 「やっぱりここだ」

 私は、足元に注意しながら道を曲がり下った。

あの時。

 父さんは私に言ったんだ。

 「この道の先に、きれいな花が咲いてるところがあるからよ。取ってこい。母ちゃんにやるんだよ」

 私は言われるままに道を下ったんだ。

 あたりは薄暗くなっていて、風が冷たかった。でも、いやだとは言えない。父ちゃんには逆らえない。げんこつが飛んでくる。あの頃の嫌な記憶がよみがえった。

 私は振り返りもしないで、道を進んだと思う。

 もし振り返ってみたら、私を置き去りにして、逃げ去る父ちゃんの後ろ姿を見たかもしれない。

 暗く険しい道は怖かったが、私は急いで、できるだけ遠くに行きたかったんだと思う。

 (そう。私は父ちゃんから逃げたかった)

 どんどん走って、ぐるぐる歩いて、私は、小さな祠にたどり着いたんだ。

 

 今歩いている道には、祠らしきものは見えないが…。

 私の額にうっすらと汗がにじんできた。10月とはいえ、これだけ歩くと暑い。

 あの時は、ポケットにミカンが入っていたのだから、春先だったのかな。

 そうだ、雨が降ってきて、冷たかったんだ。着ている服も薄くて、寒かった。

 恐ろしいほど鮮明に記憶がよみがえった。

 何を着せられていたのかわかりゃしない。あの人たちにとって、私はいてもいなくてもいい、どうでもいい子だったんだ。

 「あのミカンは、どうして持っていたんだろう」

 なぜか、私はミカンを持っていた。そのミカンのおかげで、私は助かったと思っている。そして、あの祠のおかげで。

 「あっ、あそこにあるのが・・・?」

 少し先に、祠らしい建物が見えた。作り変えられたのか、真新しい木の香の残った祠だった。

 私は、そこの階段に腰を下ろして、一休み。

 「ママはね、ここに隠れていたのよ。ミカンをちょびっとずつ食べてね。何日も」

 私は、お腹の子に話しかけた。

 「そしたらね、親切なおばあさんが来てね、ママを見つけてくれたの」

 とお腹を撫でた時、

 「おーい、ねーちゃん!ねーちゃん!」

 と、呼ぶ声。

 (えっ?私?)

 私が来た道を、小走りに降りてくる男の人が目に入った。

 男の人は、私に近づくと、息を整えて言った。

 「おっきなお腹して山に入っていったよそ者がいるって、ばあちゃんが心配して、俺に見て来いっていうから、おいかけてきたのよ」と。

 (おー、やっぱりここは山!)

 「まあ、なにはともあれ、山を下りろや」

 と、男の人は私を促した。

 

 私は、男について山を下り、「ばあちゃん」の家に案内された。まるで、あの時のように。

 「ばあちゃん」は、お茶を入れて

 「さあ、飲んで、飲んで」

 と勧めてくれた。ふかし芋も出してくれた。

 「裏の山は、低いけど侮れねーのよ。神隠しの山って言われてて、迷い込んでひどい目に合うもんがいてな。そんで、道祖神様を祭って、守ってもらうことにしたんだというけど、あんたが山に入っていった姿がなんか訳ありに見えたもんで、勉に見に行かせたんだわ」

 そう話す「ばあちゃん」の声がなぜか懐かしい。あの時の「ばあちゃん」だと思った。

 男の人の名前は、勉さん。

 「もう20年ぐらいまえになるかね、迷子になった子どもを見つけたこともあったんだよ。記憶喪失の子でね」

 そういいながら、「ばあちゃん」は私の顔をじっと見た。

 私は、なんだかくすぐったくなって、笑ってしまった。

 「やっぱ、あんた、あんときの子だね。ミカンちゃんか?」

 私は、大きくうなずいた。

 あの時、私は、色々聞かれても何も答えなかった。そして、名前をきかれた時、「ミカン」と答えたのだ。

 それで、私の名前はミカンになったんだ。

 「ミカンって?藤崎のミカンか?」

 勉さんが、びっくりするような大きな声で言った。

 藤崎というのは、私の里親だ。

 助けられた私は、藤崎さんという家に預けられたのだ。そこには里子が7・8人いた。

 藤崎のお父さんは牧師さんで、説教がうまいので有名な人と言われていたが、私たちにもいつも「正しい行い」につて説教をしている人だった。私たちは、それが苦手で、お父さんとは呼ばずに牧師先生と呼んでいた。

 藤崎のお母さんは、笑顔の少ない人だったが、とても良く働く人で料理が上手だった。教会の信者さんたちが持ってきてくれる野菜で、おいしいものを作ってくれた。着るものも、信者さんのところのお下がりだったが、きれいに洗濯されていて、気持ちよかった。

 甘えさせてくれる人ではなかったが、私は藤崎のお母さんが好きだった。

 勉さんが、私の顔を覗き込んでいった。

 「おれも、藤崎の子。覚えてないかな?勉兄ちゃんだぞ。ミカンは小さかったから無理か」

 勉さんは、30歳位なのか…。

 「俺はミカンのこと、よーく覚えてるぞ。藤崎に連れてこられた子は、最初は泣くけどさ。ミカンは泣かなかった。いや、うまそうに飯くってさ、嬉しそうだった。そんなミカンを見て『ずいぶん苦労してたんだね』って、藤崎のかあさんが涙こぼしたぜ」

 そのことは、記憶にない。

 「本当にミカンは藤崎の家で楽しそうだったな。俺のギャグにも笑ってさ」

 (ギャグ?)

 「あー、空気のお兄ちゃん!」

 私は勉さんのことを思い出した。

 ギャグというのか、よくわからないなぞなぞ出すお兄ちゃんがいたのを思い出したのだ。

 ジュースの入ったコップを持って、「ここに入ってるのなーんだ」ってきいて、「ジュース」と答えると、ジュースを飲ませてくれて、空になったコップを見せて、「ここに入っているのなーんだ」聞いてきた。「空っぽ」と答えると、「馬鹿だなー」と小ばかにして、「入っているのは、空気」と言って大笑いしたんだ。

だから、空気のお兄ちゃん。

 でも、一緒に暮らした時間は短かかったと思う。

 「おれはさ、中学に入るとき、おふくろが迎えに来てさ。家に帰ったんだ」

 初めて聞く話だった。

 「うちのばばあが病気で倒れたから、俺に介護をさせるために迎えに来たのさ。ばばあの世話をしながら中学へ行って、卒業したらすぐに大工の棟梁のとこへ弟子に入って、大工やりながら、畑仕事をやっていた」

 勉さんの話にうなずいて、ばあちゃんが言った。

 「勉はえらい子よ。一人前の大工になって、立派な百姓になって、呆けたばあちゃんの世話して、飲んだくれの母ちゃんの世話をした」

 「えらかないけどさ、ばばあとおふくろを看取ってやれてよかったよ」

 勉さんも苦労してるんだと思った。

 「そして、今は、よろず屋で、このあたりの年寄たちの世話をしてるのよ。さあ、今日はミカンちゃんも晩飯食べていきな」」

 そういいながら、ばあちゃんは台所へ立って行った。

 「おれは、世話してるわけじゃないよ。ばあちゃんの畑借りてるからさ、年中顔出すだけ」

 勉さんは、皆に好かれているのだと思った。良い人なんだと思った。

 「晩飯食っていくのはいいと思うけど、旦那が心配するんじゃないか」

 と、勉さんが、私のお腹に目をやりながら云った。

 「旦那はいないの。結婚してない」

 私は、勉さんに話した。誰かに聞いてもらいたかったことを、全部。

 「付き合ってる人はいるのよ。もうすぐ結婚をする話にはなっているの」と。

 「だけどさ、子供ができたって話したら…」

 「話したら?」

 「なんか変わったのよ、あの人。気のせいかなと思うけど、ふざけたふりして、駅の階段の上で。体をぶつけてきたの、危なく転げあちるところだったわ」

 「危ないな」

 「うん。別の時には、ひょいと足を引っかけてきたり、じっと睨みつけていたり。その目が、誰かに似てた」

 「誰に?」

 「わからなかった。でも、なんか、どこかで見たような気がして…。ここへ来たのよ。私が生まれ変わったあの祠へ」

 「生まれ変わった?そうか。それで、何か思い出せたのか・」

 「うん。ぜーんぶ思い出した。ううん、思い出したんじゃない。私は忘れたんじゃない、忘れたふりをしていたのよ、きっと」

 体の芯がポッポと熱くなってきた。

 「あの目は、あいつと同じ目。私を怒鳴ったり、殴ったりしたあいつの目。山に私を捨てた父さんの目」

 言いながら、体が震えた。涙が出てきた。

 「やめろ。そんな男と結婚しちゃだめだ。そんな男は捨てちゃえ」

 勉さんが、私の肩を抱いてくれた。

 「お前は、父ちゃんや母ちゃんに捨てられたんじゃない。お前が父ちゃんと母ちゃんを捨てだんだ。そうだろう?」

 勉さんの言葉が、スーッと心にしみてゆく。

 「ミカンも、お腹の子も俺が面倒みる。何にも心配はいらない。俺たち藤崎の子だからな」

 私は、大きくうなずいた。自分が何をしたかったのか、何をしにここへ来たのか、今、分かった。

 そんな私に、勉さんが云った。

 「お帰り」と。


   
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