「指輪の物語」
「ペギー!」
と、言いかけて、信二はその言葉を飲み込んで軽く会釈をした。
目の前にいるのは、マンションの管理人室に挨拶に来た新しい清掃員さんだ。
清掃員の制服に三角巾。顔は大きなマスクに覆われた姿では、実の姉でも見間違えそうなのに、なぜ「ぺギー」という名が浮かんだのか。
かなり高齢らしい清掃員さんは、丁寧にお辞儀を返して、エレベーターに乗って行った。
五階まで登って、一階ずつ共有部分を清掃しながら下りてくるのだろう。
(でも、あの目は確かにぺギーだ)
信二はそう確信した。
忘れもしない56年前、1965年の2月14日。信二は「ぺギー」が落とした指輪を拾った。
大学を出て数年、小さな音楽雑誌の編集者をしていた信二は、新宿にある「ヨットハーバー」というジャズ喫茶に入り浸っていた。
「ぺギー」も常連客の一人だったのだ。
常連といっても、仕事帰りに一人で寄って、小一時間ジャズを聴いて帰って行く、静かな客だった。
ジャズ喫茶には不釣り合いな育ちの良い上品な雰囲気で、遊び人の信二達も声を掛けそびれていた。
あるとき、リクエスト曲は有るかと尋ねると、「ペギーリーのマックザナイフ」と答えたので、彼女が来るとその曲を掛けてあげた。
そして、信二達は密かに、彼女を「ぺギー」と呼んだのだ。
1965年の2月14日、その日はバレンタインデーで店は混んでいた。
「ぺギー」は珍しく女友達と二人で来ていて、はしゃぐように話し込んでいた。時折見せる笑顔を愛らしいと思い信二は目の端でその姿を追っていた。
「ぺギー」が帰ると、信二は、彼女たちのテーブルを片付けに行った。忙しい時に、店を手伝うのは常連客の常だ。
コーヒーカップを持ち上げると、ソーサーの上に指輪が乗っていた。
「ぺギー」が忘れたのだと信二は思った。
急いでそれをポケットに入れて、信二は「ぺギー」を追って店を出た。しばらくそのあたりを探してみたが見つからなかった。
そして、高価な指輪なのか確かめたくなって、馴染みの質屋に持ち込んだ。
指輪についていた大きなルビーは本物で、信二には縁のないような金額が借りられることが分かった。
一瞬ためらったが信二は金を借り、それを旅費にしてニューヨークへ飛んだ。
今と違って、一ドルが360円の時代。ニューヨークへ行くのは、夢の夢だった。信二はニューヨークでジャズを聴いて回り、ジャズについて語り、いっぱしのジャズ評論家気取りで帰国した。
あの指輪が無かったら叶わなかった夢だった。
「必ずこの指輪は受け出しに来るから、流さないでよ」
という信二の言葉を質屋の親父さんは信じて待っていてくれた。
指輪は、今でも信二の手元に有る。
いつか指輪は返すという信二の気持ちが、「ぺギー」忘れさせなかったのだろう。
「ぺギー」と、呼ばれた気がした。
(そんなわけないでしょ、いよいよぼけてきたかな)
由美子は、階段を掃き、手すりを拭きながら、一人苦笑した。
由美子は、お嬢様学校で有名な短大を卒業すると直ぐに、新宿のデパートの呉服売り場に勤めた。
実家が花巻市の駅前の呉服屋で、仙台市にある大きな呉服店へ嫁ぐ話が決まりかけていたからだ。
青春最後の自由な時間を、由美子は密かに楽しんだ。お気に入りのジャズ喫茶でジャズを聴く時間。
由美子にとって「ヨットハーバー」は居心地の良い店だった。なじみ客として、行くと由美子の為に「ペギーリーのマックザナイフ」を掛けてくれる。
由美子が「ぺギー」と呼ばれているらしいのも、乙女心を満足させてくれた。
婚約が決まった由美子は、1965年の2月14日、青春の思い出の店に親友のルリ子と行った。
話しながら、無意識にルビーの婚約指輪を外したのだろうか。気が付いた時には、指輪は無かった。
次の日、「ヨットハーバー」に指輪を探しに行ったが誰も知らないと言われた。
道で落としたのかと必死で探し回ったが、みつからない。親友のルリ子をも疑う気持ちになって・・・。
由美子は、ルビーの指輪を紛失して、婚約を解消された。特別に好きな相手ではなかったから、心の傷は無かったが…。
由美子の結婚を機に、由美子の実家は結婚相手の店から資金援助を受ける予定だった。それがかなわなくなった。加えて、指輪の代金を弁償するように言われて、お金に詰まった由美子の実家は、倒産してしまった。
父親は地元に残って、細々と呉服の行商を続けたが、気位の高い母親は、惨めな姿を知り合いたちに見られるのは嫌だといって、由美子を頼って上京した。
贅沢癖の抜けない母親を養って半世紀。今は、98歳になった母親の入院費が重く肩にのしかかっている。精いっぱい働いているのだ。
指輪の紛失は痛手だったが、あのまま結婚して、たいして好きでもない相手と結婚して呉服屋家業に縛られていたらと思うと、今はこれで良かったと思っている。
「ぺギーか…。」
日常からかけ離れた青春!
あれからの苦労を差し引いてもおつりがくる楽しい思い出。
思い出しただけで、体が軽くなり仕事がはかどる。
信二は、今はマンションの管理人としてここで住み込みで働いているが、自分の一生は、面白い人生だったと満足している。
大した蓄えもないが、いざとなったらルビーの指輪を売ればよいと思っていた。これまでも何度も質草として信二の危機を救ってくれた指輪だ。けれども、借りただけで、ネコババしたのではないというプライドもあった。
今、「ぺギー」に会ったのも、神様のお引き合わせだと思えた。
(だけど、本当に彼女は、ぺギーか?)
いや、確かめるまでもない。年月が何もかも曖昧にしてしまった。指輪を返す。ただそれが必要なことだ。誰に返したって良い。
そう思った信二は、エントランスの花台の上の花瓶の裏に指輪を隠し置いた。掃除の途中で気づけば良し、気づかなければもうしばらく、指輪は自分が持っておこうと思ったのだ。
由美子にとって清掃は手慣れた仕事で、スイスイと進めて最後の仕上げのエントランスに取り掛かった。
花台の上の花瓶を割らないように拭き掃除に取り掛かった時、何かかが手に触った。
指輪だった。
ルビーの指輪!
由美子の胸が、大きく波打った。
(私の指輪?)
そんな不思議なことがあるものかと指輪の裏を確かめる。
Love yumiko
「あたしの指輪!」
由美子は急いで左の薬指にはめてみた。年を取って節くれだった由美子の手にピッタリ!
婚約指輪としてもらった時は、1サイズ大きくて、ゆるゆるだった指輪。
誰かに見られている気がしたが、由美子は指輪をはめたままにした。
「あたしの指輪だもん」
失ったものは大きかったが、今、人生の最後の1ピースがピタリとはまったのだ。
由美子はワクワクして、そっと微笑んだ。
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