土曜日の午後、まだ家にはだれも帰ってきていない。真央はぐるっと部屋を見渡した。台所がついた六畳のリビング、奥に6畳の和室と洋室の二部屋。それにお風呂と玄関。三階建ての中古マンションの105号室。
ここに、お父さんとお母さん、中学二年生の公平兄ちゃん、保育園年長組のみどり、そして小学五年生の真央の家族五人が住んでいる。
(狭すぎるよ、まったく。今年中に3LDKの新築マンションに引っ越すはずだったのに。マンションを買う頭金がたまったとみんなで喜んでいたのに)
そのお金をお父さんが親友に貸したのだ。
親友というのはお父さんが働いている修理工場の狭山さん。狭山のおじさんが社長で専務が真央のお父さん。経理は狭山さんの奥さん担当。社長だの専務だのと肩書はすごいが、狭山さんの家の一角にある小さな小さな工場だった。
コロナで資金繰りが悪化して部品の納入先に支払わなければ、工場をたたむよりほかないと相談されて、お父さんはお金を出すと言った。もちろん社長の狭山さんはお父さんよりたくさんのお金を出したんだって。それで新築マンションを買う話はおじゃんになった。
(お父さんのお人よし!)
真央は迷いがふきとんだ。荷物をつめたリュックを背負うと、メモ用紙を食卓のテーブルに置いた。
「お父さんのバカ。家出をします。真央」
真央は玄関ドアに鍵をかけると、まっすぐ前をむき勢いよく歩き出した。目指すは駅の高架下。歩いて30分ほどの所にある。
広い道路を横切ると、細い道にはいる。道の両側は雑木林。色づいた欅やクヌギの葉っぱが秋の日をうけて黄褐色に輝いていた。林を通りすぎるとぱっと視界が開けた。
造成開発中の広大な土地が目の前いっぱいに広がっている。そこにぽつぽつとマンションや戸建ての家が建ちはじめていた。
5階建てのベージュのマンションが見えてきた。
(ここよ、わたしたちが住むはずだった家は)
真央はおそるおそる近づく。
三階の東の端の308号室。真央たち家族で見学に行った部屋だ。ベランダに面した南側の部屋のシャッターがおりていて人が住んでいる気配はない。308号室はもう売れたんだろうか。駅裏で開発途中の土地だからすごく安くてお買い得だと案内してくれた不動産会社の女の人がさかんに言っていた。
南向きの日当たりのよいリビングと和室。北側に四畳半と六畳の洋室があった。
「おれ、ここにきーめた。成績がぐんとあがったりして」
お兄ちゃんはニヤニヤしながら四畳半の洋室のクリーム色の壁をなでた。
「真央とみどりは二人だからおれの隣の6畳な。二段ベッド買ってもらってさ、真央が上に寝てみどりは下の段にするといい。和室はお父さんとお母さんの部屋」
公平兄ちゃんは偉そうに言った。お父さんとお母さんもうんうんと笑顔でうなずいた。真新しいマンションはどこもかしこもピカーンと光っていた。家具一つ置いてないので広々している。
お母さんは台所に入って目を丸くした。
「すごい!よくできてる。収納庫も使いやすそう。ガスレンジも掃除しやすそう。わあー、流しのステンレス、ピカピカだ。汚いお鍋なんか置けないわね」
案内してくれた不動産会社の女の社員が満足そうにうなずいた。
「そうですよ。建築と医学は日進月歩、すごい勢いで進化していますからね。快適なお住まいになること間違いなしです。楽しみですねえ」
それが、それが・・・・。幸せな夢が消えてしまったのだ。
真央は急いでマンションのわきを通り過ぎ、駅の高架下へ向かった。
高架下には金網のフェンスがずっとはりめぐらされていた。フェンスの中が見える。むきだしの土の上に重機や麻袋やブルーシート、工事用の道具が沢山置いてある。
フェンスの前には真央より背の高いススキがずらっと銀色の穂をなびかせている。クズもいっぱいはえていた。クズのつるはフェンスにからまり、上へ上へとのびて葉を茂らせていた。ススキとクズが生い茂っているところだけ中はほとんど見えない。フェンスの中には入れそうもなかった。でも一か所だけ、フェンスの下にすきまがあった。真央は下見をした時、ここと決めていた。
あたりを見回す。だれもいなかった。真央は肩からリュックを下すと、フェンスのすきまからリュックを中に押し込んだ。次に腹ばいになって自分の体を少しずつ中に入れる。ひんやりとした土の感触。
ついに来てしまった、と真央は思った。体を全部フェンスの中に入れると、立ち上がって高架の奥に進んだ。土の上にレジャーシートを敷いて小さい毛布を広げる。リュックの中から、水筒、おにぎり、パン、お菓子、マフラー、毛糸の帽子、懐中電灯を取り出して並べる。だんだん気分が高まってきた。
五年生で家出する子って、そうそういないよね。なんて嬉しくなる。おにぎりは日が暮れてから食べよう。ちょっとおなかがすいたからおやつを。真央はビスケットの袋をあけて一つ口に入れた。サクっとかむ。ふいにみどりのうれしそうな顔が浮かんだ。
みどりはお菓子が大好きで、特に動物ビスケットは一番のお気に入りだった。一つ一つ手に乗せ、じっとながめてからゆっくりと口に入れた。
「ゾウさん、コアラさん、あ、こんどはウサギさんだよ。おねえちゃんもほしい?」
なんて。あまりおそいので、
「いいから、早く食べちゃいな」
なんてせかしたっけ。
水筒のお茶を飲む。もっと大きい水筒を持って来ればよかった。公平兄ちゃんがバスケの部活に持って行くようなやつ。お兄ちゃん、今日も部活だ。来年は中学三年になる。新しいマンションに引っ越したら自分の部屋がもらえる。受験勉強も頑張るぞって喜んでたのに。
お父さんのバカ。
お父さんの顔が浮かぶ。色白の丸顔に広いおでこ。はげかかった頭。細い目と垂れ下がった太い眉。一日中立ったりしゃがんだり、車の下へもぐったり。休む暇なく車の整備をしている。だからなのか、お父さんの体は贅肉がちっともなく筋肉質のバネみたいだった。人の好さそうな丸顔と体がアンバランスな感じがするお父さん。顔だけ見ていると、パン屋さんのおじさんみたいだった。お父さんのつなぎの青い作業服はいつも油と泥や埃にまみれて独特のにおいがした。
真央はぶるんと頭をふり、お父さんを振り払う。いくら親友の社長だからといって大切なお金を出すなんて。家族より親友のほうがが大切なの?お金を貸さなかったら工場がつぶれるって本当?頭の中がグルグルしてきた。
「ゴオー ゴトゴト ゴオッー」
高架上を電車が通った。真央は一瞬びくっと首を縮めた。東京から千葉へ行く電車だ。
あたりが暗くなってきた。フェンスの向こうを人が通り過ぎる。駅から家に帰る人だろうか。足早に通り過ぎていき、だれも中をのぞかない。地面に敷いた毛布からじんわりと冷たさが伝わってくる。
真央はおにぎりを食べた。自分でにぎった大好きな梅干のおにぎり。なのにおいしくない。口の中でご飯がうまくとけていかない。ご飯のかたまりを無理やり飲み込む。やがてあたりが真っ暗になった。
突然、うしろの草むらがガサガサっと音を立てた。
タヌキ?思わず振り返り目をこらす。
このあたりは少し前まで雑木林が生い茂り、湿地帯だった。今でもタヌキやフクロウを見たという学校の友達もいっぱいいた。
懐中電灯をつけて時計を見ると、まだ六時。
と、かすかな羽音がした。隣のフェンスから黒いものが次々飛び立つ。何匹も何匹も。コウモリだ。
高架上を電車が通るたび、草むらが動くたび、人が通るたび、真央はびくついた。長い夜を過ごせるか不安が増してくる。膝を抱えてうずくまった。
(お兄ちゃんは部活から帰ったかなあ。お母さんはスーパーでの仕事帰りにみどりを保育園に迎えにいったころかなあ。お父さんはきっとまだ仕事中だ。今晩のおかずはなにかなあ。置き手紙、だれが一番最初に見つけるかなあ。あっ、もしかしてだれも見つけてくれなかったりして・・・・)
真央は家族のことばかり考える自分がはがゆかった。好きなアイドルグループやマンガや友だちのことを考えようとするのだがダメだった。
もしかして、捜索願いが出されて警察の人がきたりして。
もしかして、変質者がきてどこかへ連れて行かれたりして。
最悪、殺される?テレビで見たサスペンスドラマのシーンが目の前に広がり、真央は目をぎゅっとつむり、身震いした。
(だれかわたしを見つけて!)
本気でそう思い始める。自分からここを出て家に戻ろうかとも思った。そのたびにもう一人の自分が言う。
(そんな甘い考えで家出したの?お父さんのことが許せないんじゃなかったの?)
お腹もすかない。まして眠れそうにもなかった。フェンスの外はもうとっぷりと日が暮れて真っ暗闇につつまれている。ただただ、時間よ、はやく過ぎてと祈った。
電車の走る音、草むらのゆれる音、風の音、たまに通る人の足音に一つ一つ反応していた真央は次第に体も頭もマヒしてきた。外界と切り離されこのまま暗闇に溶けていくような感覚に襲われる。感情が薄れていく。空っぽになっていく。極度の緊張と疲れで真央は毛布に横たわる。手が冷たい。足が冷たい。
そのうち下から這い上がって来る冷気さえも感じなくなっていった。
どのくらいそうしていたのだろう。
「真央、真央!」かすかな声が聞こえたような気がした。
でも真央は動けなかった。呼び声はだんだん大きくなる。
フェンスの外で懐中電灯のあかりがあちこちに飛ぶ。ホタルみたいに。そして、あかりがフェンスのすぐ前で止まり、真央を照らした。
「母さん、いたよ。ここ、ここ」
公平兄ちゃんの声だ。
「まったく、人騒がせなヤツだ」
走って来る足音。
真央はまぶしい光のむこうに家族の顔を見た。
「おい、出ろよ、自分でさ」
公平兄ちゃんが言った。
真央は縮んだ体を伸ばす。体が固まっている。ぽきぽきと音がして折れるのではないかと思うくらいだった。かじかんだ手でリュックの中に荷物をつめて毛布とレジャーシートをたたんだ。先に荷物を穴から出した。それから真央は腹ばいになって外へ出た。すぐに立てなかった。ふらりとよろめいた。
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
みどりが真央の手をとってくれた。みどりの小さくてやわらかい手。その手はびっくりするほど暖かかった。
お母さんが真央のほほをぶった。
真央は驚いてお母さんの顔を見る。
見たこともないこわい顔だった。
「あのね、こんな心配二度とかけるんじゃないよ。あんたもよくしってるだろ?狭山さんとお父さんはね、整備士専門学校からの付き合いでずっと親友で一緒に仕事を頑張ってきたんだよ。真央が生まれる前からね。そして、やっと独立して二人で小さい修理工場を持てたんだ。工場がなくなったら狭山さん家族も、うちも生活に困るんだよ。そりゃ、いっとき、新しい家に引っ越す夢を見たよ。夢は先にのばしたっていいじゃないか。みんなで働いてまたお金を貯めればいい。それなのに、おまえって子は・・・情けない・・」
お母さんは顔をゆがませて、声をつまらせた。
「母さん、もうそのくらいにしとけ」
お父さんが真央のそばによって、真央を抱いた。真央はお父さんの作業着に顔をうずめる。車の油のにおいやネジや泥のにおい。そうだお父さんのにおいだ。真央はお父さんのにおいを深く吸いこんだ。
「ごめんなさい」真央のからからに乾いた口から小さい声がもれた。
「お兄ちゃん、わたしの家出場所、どうしてわかったの?」
「父さんも母さんもすぐわかったみたいだ。だって、新築マンション見に行った時、おまえが一番喜んで舞い上がってただろう?マンションの近くだって見当がついたよ。実はオレも家出するんなら、フェンスの中って思ってた」
「エエツ」
真央は信じられなかった。
「お兄ちゃん、自分の部屋、おじゃんになったね」
「いいよ、今までどおり五人でごちゃごちゃ暮らせばさ」
月の光でお兄ちゃんの横顔がうっすらと見えた。その顔はちっともくやしそうじゃなかった。いつものとぼけたお兄ちゃんの顔だった。
買うはずだった新築マンションの横を通りすぎた。
お父さんとお母さんはみどりの手をつなぎ黙って歩いて行く。
そのうしろを歩くお兄ちゃんと真央。
五人のかげぼうしがゆっくり動いて行った。
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