生田 きよみ の棚   読み切り
  
シブヤクリーニング 

 父さんが出刃包丁を砥いでいる。砥石の上の包丁は父さんの手と一体化したようにリズミカルに動く。砥石の横の布巾には砥ぎ終わった刺身包丁が置いてある。父さんの毎朝の仕事だ。

 父さんは、ここ、「ホテル岬」の調理人として働いている。でも、新型コロナウイルスの感染拡大で宿泊客はほとんど無くなり、日帰り客もぐんと減ってしまった。



(ランチでもいいからお客さんが来るといいね)と、海斗は話しかけたいが、リュックを背負ったまま黙って見ていた。

丁寧に砥いでから父さんは包丁を持ち上げて日にかざす。包丁は朝日を受けてピカッと光る。どんな魚でもすっとさばけそうでこわいくらいだ。父さんはやっと海斗の顔を見た。目が和らいでいる。 

 「海斗、気をつけてな。市川まで三時間かかるぞ。おじいさんとおばあさんの言うことをちゃんと聞くんだぞ」

そこへ母さんと美波がホテルの従業員入り口からぐるりとまわって出てきた。母さんは大きなボストンバッグを持って、美波は大きなリュックを背負っている。

「待たせたね、海斗。じゃあ、お父さん行ってきます」

 母さんがはずんだ声で言った。

 「父さん、一人で大丈夫?」

 美波が言うと、父さんが笑った。

 「美波、六年生になって急に偉そうになったな。いとこたちとはしゃぎすぎるなよ」

 下の道に出ると、海斗は父さんが勤めるホテルを見上げた。五階建てのリゾートホテル。海側のベランダには全く人影がない。夏休みは一番賑やかな時期なのに。

 母さんも同じことを考えていたのかため息をついた。

「こんなことが起こるなんてねえ。だれも想像しなかったよ」

「母さん、そんな話やめて。おばあさんちへ行ったら、伊吹ちゃんと買い物やディズニーランドに行くんだよ。海斗と蒼汰くんも連れてってあげる」

「まったく、美波はのんきだよ。今は緊急事態宣言出てるのに。もしかしたら、もしかしたらだけど、あんたたち、二学期から市川の学校に転校するかもしれないんだよ」

「やったー。わたし、こんな海ばっかりのとこ、つまんない。伊吹ちゃんがいる賑やかな町のほうがずっと楽しそう。ねえ、本当におじいさんと一緒に住むの?いいなあ、転校したいな」

 「千分の一くらいの可能性でね。そんなことにはならないと思うけど」

 「なんだ、がっくりきちゃう」

 とたんに美波の歩く速度が落ちた。

 海斗は、今頃、海辺のホテルの調理場で真剣な顔で調理台をふいたり、鍋やフライパン、ボールの点検をしている父さんを思った。

 

 おじいさんとおばあさんの家に着いたのは十二時を過ぎていた。

 おじいさんの家は賑やかな商店街にある。代々からのクリーニング店で腕の良いことで評判の店だったという。でも、おじいさんが脳梗塞にかかって、後遺症が残り、認知症が出てきた。それで五年前、店をたたんだという。

 

 おじいさんの家は店の横に住居があった。店のシャッターは閉まったままだ。シャッターの上には木でできた古びた看板がかかっている。黄色い字で「シブヤクリーニング」と書いてある。

海斗はこの看板を見るたびにおじいさんの家に来たことを実感した。

 母さんが玄関のチャイムを鳴らした。

先に着いていた母さんの妹の千尋おばさんが大きくドアを開けた。おばさんの後ろでいとこの伊吹ちゃんと蒼汰くんが目を輝かせていた。きた

「いらっしゃい、お姉さん。待ってたのよ。さ、入って入って」

 居間に入ると母さんがおじいさんとおばあさんに挨拶した。

 「お世話になります。よろしくね」

 「他人行儀はなしだよ。おなかすいたでしょ。そうめんがゆだってるから、食べよう」

おばあさんが手招きした。おじいさんはもうテーブルについていた。

 海斗たちは手を洗うと腰かけた。大きな丸テーブルだったが、八人座るとぎゅうぎゅうだった。

皆夢中で食べた。

 「お代りいっぱいしてね。ほら、まだこんなにあるから」

千尋おばさんが大ざるに入ったそうめんを見せた。冷たいそうめんはびっくりするほどおいしかった。海斗はおつゆもお代わりして食べる。ほてった体が冷えていった。食事が終わると、おじいさんとおばあさんは美波と海斗に色々なことを聞いた。学校は楽しいかとか友達と遊んでるかなどの話だ。でも、なぜか父さんのことは聞かない。海斗は不思議に思った。

食事がすむと、母さんが言った。

 「子ども達は和室へ行って。一年ぶりだもの、いとこ同士で遊びな」

 「ねえ、ゲームやろうよ。スイッチ持ってる?」

 中学二年生の伊吹が聞く。美波も海斗も普通のゲーム機しか持っていなかった。

 「わたしと蒼汰が持ってるから、二人一組でやろうよ」

 伊吹ちゃんと美波、海斗は蒼汰くんと組む。蒼汰くんは海斗より一つ下の四年生なのに上手だ。やり慣れていた。海斗はゲームがあまり好きではなかったのでなんとなく集中できなかった。

隣の部屋の声が聞こえてくる。

おばあさんの声だ。

「わたしたち、もう歳だし。わたしは脚が悪い、おじいさんは手でしょ。これから先どうなるかって心配でね。素子、この前電話で話したでしょ。ここでクリーニング店やるってことだよ。個人のクリーニング店はもうできないけど、取次店ならできるかなって。取次店になってくれないかって、二件も頼まれてさ。マンションがどんどんできて人口も増えてるし。いい仕事だよ。」

「一応考えたんだけど・・・・。やっぱり・・・・ごめん」

と、母さんが小さい声でいった。

すると、千尋おばさんが言った。

「お姉さん、無理しないで。わたしは姑さんと住んでいるからお父さんたちと一緒には住めないわ。だけど同じ市川市だからすぐ来られるし。お父さんとお母さんのことはわたしが面倒みるよ」

 千尋おばさんが続けた。

「晃兄さんはなんて言ってるの?」

「本当のこと言うと、まだ晃さんには話してないの」

「そうなんだ」

千尋おばさんが声を低くした。

母さんが、

「うちの人、調理師学校出てから、ずっと料理人一筋でやってきたんだよ。無理に決まってる。かわいそうすぎる」

 と、言った。

「わかるわ。お姉さんの気持ち」

 千尋おばさんが言い終わらないうちにおばあさんが、早口で言った。

「でも、今、仕事無いんでしょ。コロナがまだ数年続いたら、ホテルがダメになるかもしれないじゃないか。素子だって、今、自宅待機なんでしょ」

 母さんが声を荒げた。

「そうだけど。お母さんは私達と住んでほしいだけじゃないの?クリーニング店やってたのはもう五年以上前のことだよ。機械だってみんな処分したのに。またクリーニング店やるつもり?取り次ぎ店の利益だけでは食べていけないよ」

 おばあさんが答えた。

「わたしはね、晃さんが料理人としてすごく誇りを持ってることはわかってる。だから、市川のホテルか和食レストランで働いたらいいかなと思っただけだよ」

 その声は小さくなっていた。

 千尋おばさんが思い出したように言った。

「お姉さん、お父さんがね、認知症になっても毎朝「シブヤクリーニング」の看板を見てうれしそうな顔をするんだって」

 それからみんな黙り込んだ。

 

 海斗たちはゲームにあきて、外に出ると、近くの公園へ行った。狭い公園には子どもがあふれていた。鉄棒やブランコ、滑り台はあったが、小さな子どもたちが順番を待っている。ベンチでは、海斗くらいの男子がゲームをやっていた。

 海斗たちはボールも何も持ってなかった。伊吹ちゃんがポケットからゲーム機を取り出す。美波も蒼汰くんも一緒に覗き込む。

「ぼく、帰るね」

 海斗は一人で先に帰った。

玄関から、店の作業場に行った。シャッターがおりたうす暗い作業場。大きなドラム式洗濯機や乾燥機、広いアイロン台、出来上がったお客さんの洗濯ものをしまう棚やハンガーをつるすポール。おぼろげな記憶だったが、がらんとした作業場を見ていると、それらがしだいにはっきりと目に浮かんできた。

 母さんが言ってた。会社に勤めていた時も土曜日や日曜日には、店を手伝ったって。もちろん、千尋おばさんも結婚するまで手伝ったそうだ。海斗がぼうっとながめていると、母さんが来た。

「あら、美波たちは?」

「まだ公園にいる」

「こんな薄暗いところでなにしてるの?」

「店があったんだって、思い出してた」

「変な子だねえ。もう昔のこと。やっぱり、無理だ、母さんも。一週間、おじいさんたちに親孝行したら、父さんのとこへ帰ろう」

 海斗は大きくうなずいた。

「ここでクリーニング店の取り次ぎ店してもいいかなあと、ほんの少し思ったけど、やっぱりダメだわ。房総で頑張る。なんとか仕事見つけて働くわ」

「ねえ、家ってそんなに貧乏なの?」 

 海斗がきくと、母さんはあごをあげてカラカラと笑った。

「ぼく、考えたんだけど、ホテルの下の道に看板たてたらどうかな。(ホテル岬 新鮮な魚貝のランチあります)って。そしたら、車で通る人が寄ってくれるかもよ」

「海斗、あんた、すごいね。グッドアイデア」

 母さんが海斗の肩をとんとんとつついた。

 

 伊吹ちゃんたちが帰ってきた。昼寝をしていたおじいさんも起きたのでみんなで冷えたスイカを食べた。

 

 翌朝、海斗は早起きして外にでると、おじいさんがいた。看板を見上げている。

「おじいさん」

 海斗が声をかけるとおじいさんは看板を見上げたまましわがれ声でつぶやいた。

「シブヤクリーニング、シブヤクリーニング」

 そして、おじいさんはうん、うん、とうなずくと家の中に入っていった。

 

  一週間はあっというまに過ぎた。千尋おばさんはディズニーランドの予約をとってくれていた。海斗は二回目だった。夜のパレードはなかったが、色んなアトラクションに乗って興奮した。美波と伊吹ちゃんは一日中キャーキャーいってすごかった。

 

 海斗は毎朝、おじいさんと看板を見た。ねずみ色のシャッターは薄汚れて汚かった。

「おじいさん、ここに絵を描いてもいい?」

 海斗がきくと、

「絵?絵か」とおじいさんは表情のない顔で言った。

 海斗は朝ごはんの時、母さんやおばあさんにきいた。

「そうだね、もうクリーニング店はしないけど、わたしとおじいさんはこれからもここに住むんだもの。おじいさんの生きた証みたいな看板はそのままにしておこう。シャッター、汚いものね。いいよ、好きな絵を描いて」

 

 それからが大変だった。どんな絵にするか伊吹ちゃんたちと話し合った。おばあさんのリクエストは明るい絵ということだった。

 海斗は本当は海の絵にしたかった。魚や貝、カモメなど。でも、ここはね、魚屋じゃないんだよと、あっさり却下された。決め手はおばあさんが言ったことだ。おじいさんは春が一番好きだったそうだ。それで春の絵に決まった。

 いとこたちと下絵を描いた。

 千尋おばさんがダイソーに連れていってくれた。下絵を見ながら、それに使うスプレー缶を買った。海斗はワクワクしてきた。

 

次の朝、四時から書き始めた。まず空。一番背の高い伊吹ちゃんが三脚に登って青いスプレーをシャッターの半分くらいの高さまで吹きかけた。次は白と黄色のチョウチョを五匹。海斗が描いた。その下に広がる野原は蒼汰くんが。指の力の入れ具合が難しいのかまだらの野原だ。

「ぼく、下手くそ」

 蒼汰くんは離れて絵を見ると、しょんぼり肩を落とした。

「大丈夫、大丈夫。濃淡があって、野原っぽい。いいよ」

 と、美波が蒼汰の頭をなでる。

レンゲ、タンポポ、スミレ、シロツメクサの花を描いた。

「レンゲに見えないよう」

「やだ、スミレのつもりなのに、アヤメになっちゃった」

「ドンマイ、ドンマイ」

 中学でバレーボール部に入っている伊吹ちゃんは、ずっと海斗たちの気持ちを楽にしてくれた。

花を描き終わってからが大変だった。花にかからないように花をビニールで覆ってから空の青よりうすい水色のスプレーをかけた。そして最後にシャッターの右下に黄色で「シブヤ」と小さい字で描いた。これは夕べ下絵を描いた時、伊吹ちゃんが提案し、みんなでいいねえと賛成したことだった。

スプレーは本当に難しかった。全部描きおえたのは七時。腕が折れそうなくらい痛かった。

伊吹ちゃんが家に入って呼びにいった。

おじいさんもおばあさんも母さんもおばさんも出てきた。みんな目を丸くして絵を見ている。


「わあ、すごい!」

「見違えたわ!すごい、すごい」

「ねずみ色のシャッターが生まれ変わったよ、ね、おじいさん」

 おばあさんが手をたたいた。

 おじいさんは始めぽかんと口を開けてシャッターを見ていた。それからゆっくりと上の看板に目をやった。

「シブヤクリーニングがきれいになりました。またよろしくお願いします」

 おじいさんが頭を下げた。おばあさんが、

「よかったね、おじいさん」とおじいさんの腕をとった。

 

 その日の午後、海斗たちは帰った。

「美波ちゃん、中学になったら、ここへ転校してきて」

 伊吹ちゃんが言うと美波がおばあさんの方を見た。

「おばあさん、ほんとに来ていいの?」

「いいよ、海斗もくる?にぎやかになってうれしいよ」

 おばあさんはおおげさに手を振った。

千尋おばさん、伊吹ちゃん、蒼汰くんに見送られて帰る。

「母さん、わたし、おばあさんの家から、中学に行きたいな。いいでしょ?だってさ、ここには何でもある。かわいい雑貨店、スタバ、マック、コンビニ・・・みんな歩いていけるんだよ」

「ばかなこと言ってないで、真っ直ぐ前を見て歩きなさい。車にひかれるよ」

「ねえ、海斗も来る?あんな田舎、海しかないとこ、おもしろくもない。そうでしょ、海斗」

 美波はしつこく海斗の顔を覗き込む。

「いい加減にしなさいよ、美波!」

 美波は海斗に向かってべーと舌をだすと、先に歩いていった。

(ぼく、銚子の水産高校へ行って船乗りになるんだ。ぼくの釣った魚を父さんが刺身にしてくれるんだ)

 夢が膨らむ。だれにもまだ言ってないけど。

父さんは今日も包丁を砥いでいるのかなあ。海斗は早く父さんに会いたいと思った。

 


       
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