生田 きよみ の棚   読み切り
白 い 本

    

 今日はおじいさんが介護施設へ入る日だ。おじいさんは、タクシーで行くと言ったけれど、パパの車で送っていくことになった。

「わたしもついて行っていい?」

 朝ごはんの時、橙子はドキドキしながらパパにきいてみた。

 おじいさんにもう会えないかもしれないという不安が、橙子の胸にわきあがる。

「あら、だめだめ。とうこちゃんみたいな子どもがいくとこじゃないわ」

 お母さんがお箸も止めずぴしゃりと言った。パパはわたしとお母さんの顔を見比べてから言った。

「橙子は宿題があるんだろ。寒いし家で待ってなさい。おじいさんが落ち着いたら連れて行ってあげるよ」

「とーこちゃん、カルタしようよ。健太にいちゃんもする?」

 4歳の妹エマがパンを口いっぱいほおばりながらいう。

「うっせいな、クソガキ!」健太がにらむと エマがワーンと泣いた。

「健太、お前は中学生だろ。ったく、しょうがないやつだ」

 パパが言うと、エマはお母さんにかじりついてよけい声をはりあげた。

(わたしはお母さんに抱っこされたこともないし、甘えたこともないのに)

 エマの泣き声を聞いたら、橙子はどうしても行きたくなった。

「わたし、行くから。おじいさんと約束したの」

 いつもパパやお母さんにさからったことがなかった。でも、今日は違った。パパとお母さんはびっくりしたように橙子を見る。エマもすっと泣き止んで、涙の顔を向けた。

 

 おじいさんはパパのお父さんだ。おじいさんはおばあさんが亡くなってからずっと自分の家で一人暮らしをしていた。おじいさんの家は橙子の家から徒歩で二十分の所にあった。おじいさんは、料理、洗濯、掃除、庭の手入れ・・・なんでもした。

 六年前、橙子と健太を生んでくれたママが亡くなった。橙子が五歳の時だった。橙子と健太は、パパが会社から帰って迎えにくるまでおじいさんの家で過ごした。宿題をしたり、夕ご飯を食べたり、泊ったりもした。

 おじいさんは、昔、美術の教師だったそうだ。今でも写生に出かけては絵を描く。橙子もその隣に座って描いた。橙子が描いたオオイヌノフグリの絵を額に入れて飾ってくれた。すごくうれしかった。工作もした。ホームセンターで板を買ってきて、のこぎりで切り、釘を打ったり、ボンドではりつけたりして本箱や小物入れを作った。

 そして、四年前、パパは今のお母さんと結婚。すぐ妹のエマが生まれた。新しいお母さんが来てからも、橙子はおじいさんの家で過ごすことが多かった。自分の家より落ち着けたし楽しかったからだ。

 

 去年の十一月、おじいさんは自転車で転び、足首を骨折して入院。やっと退院できたが、しばらくは家事ができないので、橙子たちの家で暮らすようになった。

 おじいさんが家にきてから、パパとお母さんはしょっちゅう言い争った。ある夜、橙子はお母さんのヒステリックな叫び声で目が覚めた。

「もう、やっていけないわ。三人の子どもの世話だけでも大変なのに、おじいさんのお世話まで押し付けられてはたまったもんじゃないわよ。おじいさん、このままずっとこの家で暮らすの?」

「落ち着けよ。前みたいに歩けるようになったら、自分の家に戻るさ。親父は独立独歩の人だから」

「そんなことわからないでしょ。おじいさん、八十歳よ。このまま住むと言ったらどうするの。健太くんはずっと反抗的だし。この前なんか、わたしにクッションを投げつけたのよ。とうこちゃんは、今だに、ママと言ってくれないのよ。悲しいわ。いっそ、健太くんととうこちゃんはおじいさんと住んだほうが幸せなんじゃない?わたしにより、おじいさんになついているから」

「なにバカなこと言うんだ」

 パパのどなり声。お母さんのすすり泣く声。

 橙子は耳をふさぎ、自分の部屋へもどるとベッドにもぐりこんだ。一階の和室にいるおじいさんに聞こえなかったかと心配になる。あんな大きな声だもの。聞こえたにちがいないと橙子は思った。

 

 おじいさんが橙子の家にきて一か月後、おじいさんは介護施設に入ることになった。おじいさんが自分一人で決めた。でも、施設に入る前にもう一度自分の家に戻りたいと言って、昨日の午後、パパがおじいさんの家へ送って行ったのだった。

 

 橙子とパパは車でおじいさんを迎えにいった。門をくぐり、玄関ドアを開けると、身支度をしたおじいさんが板の間に腰かけていた。紺色のコート、紺と茶色のチェック柄のハンチング帽。そばに杖とボストンバッグが置いてあった。パパがボストンバッグを持って先に出る。おじいさんはドアに鍵をかけると、外に出た。甘い、ふくよかな匂いが漂ってきた。

おじいさんは腰をかがめて玄関のすぐ横にある木に顔を近づけた。枯れたような枝に透き通った黄色い花がいくつも咲いている。

「ロウバイという梅だよ。ほら、ごらん、まるで蝋でできているようだろ。おばあさんが

大好きだったなあ」

 おじいさんは顔をあげると、パパを振り返った。

「洋輔、ちょっと、いいか。今度、いつ帰ってこられるかわからないからね」

杖をつきながら庭をゆっくり歩く。橙子も歩く。椿の木はつややかな葉っぱのあいだから真っ赤な花を咲かせていた。

「ほう、もう水仙やチューリップの芽が出てきた」

おじいさんが足を止める。たくさんの緑色の芽が地面からつんつんと伸びていた。

「父さん、そろそろ行くよ」

 パパが門の外へ出た。

「洋輔はせっかちだ。かわらないなあ」

おじいさんは橙の木のそばへよるとふしくれだった手でなでた。

「これはお前の木だよ。お前が生まれた時、わたしが名前をつけたんだ。だいだい色の実は希望の灯りみたいに見えるだろ?」

前から聞かされていた。だけど、橙子は別にどうも思わなかった。春に咲く白い小さな花も地味で、実も珍しくはなかった。すっぱすぎてミカンみたいにそのままでは食べられなかった。おじいさんは毎年、お正月に鏡餅の上に飾ったり、しぼって調味料として使った。

橙子は緑の葉をしげらせている木を見つめた。数えきれないくらいのだいだい色の実。みかんより大きくて、厚い皮はごつごつしていた。どうしておじいさんは橙の木が好きなんだろう。聞いてみたかったが、パパがとがった声で呼んだから聞けなかった。

「父さん、もういいでしょ。海へいく道は混むかもしれないし」

  おじいさんは庭と古い家をじっと見つめる。

「八十年か、長く生きたなあ。これからはおまけの人生だ」

 おじいさんはひとりごとのようにつぶやくと、何度もうなずいた。

  車に乗りこんでからおじいさんが言った。 

「わたしは、もうここには戻ってこられないかもしれない。洋輔、時々きて、雨戸を開けて風を通してやってくれるか」

「なに気弱なこと言ってるの。父さんらしくないよ。大丈夫、父さんが留守の間、ちゃんと雨戸を開けにくるからさ」

 こうして三人は、おじいさんの施設へ向かった。

 

 町を過ぎると海が見えてきた。三人とも家から黙ったままだ。遠くの海に島が浮かんでいる。道端には土産物屋、食堂だのがならんでいる。魚や貝の絵の看板があちこちに立っていた。

 パパが言った。

「悪いね、父さん。本当は父さんの家でずっと暮らすのが一番よかった。それができなくなったら、ぼくの家にきてもらおうと思ってたんだけど・・・・。本当にすみません」

 パパは後ろを向くと頭をさげた。

「なあに、気にしなくていい。前から自分のことができなくなったら、施設へ入ろうと考えていた。だれに気がねしなくてもいいし、食事も三度でてくる。こんな結構なことはない」

 おじいさんは白い波頭がたつ海を見ながら言った。

 施設に着いた。受付で鍵をもらうと、エレベーターに乗った。五階のおじいさんの部屋へ入ると、パパは入居手続きをしに一階の事務室へいった。

おじいさんが窓辺によって手招きする。

「橙子、見てごらん。真冬の海とちがうだろ。光の粒が混じっているようなやわらかい色だ」

「おじいさん、海は好き?」

「ああ、大好きさ。見ていてあきないよ」

 おじいさんは海から目を離すと橙子を見た。

「もうすぐ、六年生か・・・あの小さかった子が・・・。うれしいねえ」

おじいさんは急に真剣な顔になった。

「わたしは橙子のことが心配なんだ。健太は態度に出すからいい。この前、お母さんと言いあって、壁をけって、大きな穴をあけたことあったろ?お前は何も言わない。胸にたまる一方だと思う。わかるんだよ、わたしには。橙子はいい子すぎる。気を使いすぎる。でもわたしは、そういう橙子が大好きだ。大切な宝物だよ」

 おじいさんはわたしの肩に手をおいた。大きくて、ごつごつした手。いつも抱っこしてくれた腕。大丈夫、大丈夫とおまじないのようにいってくれた。毎日のように一緒に過ごしたおじいさんに会えなくなる。

「おじいさんはここにいる。会いたいと思ったら、パパに連れてきてもらったらいい。だけど、きっといつか、来なくなる日がくるって」

 橙子は窓の外いっぱいに広がる海を見ながら、胸の奥からわきあがるものを必死で抑えていた。

パパが来た。

「父さん、なにかあったら電話してよ。飛んでくるからね。橙子、そろそろ帰ろうか。じゃ、父さん、ここで。体に気をつけてね。また様子を見に来るよ」

 パパは片手をあげるとドアを開けた。

 橙子はふりかえった。おじいさんは、いつものおだやかな優しい顔でほほえんでいた。

 車に乗って走り出すと、おじいさんの施設の建物が見えた。五階のベランダにおじいさんが見えた。やがて道がカーブして見えなくなった。

「橙子はおじいさん子だったもんな。だけど、おじいさんが死んだわけでもないし、すぐ会いに来られるよ。あめでも食べるか」
 パパはカセットをセットして音楽を流す。橙子はパパにもらったあめを持ったまま車窓に顔をむけた。家や畑、林・・・景色が流れていく。行きも通ったはずなのにみょうに現実感がなかった。隣に座っていたおじいさんの席。空っぽだ。おじいさんと遠く離れたことを初めて実感した。施設の自販機で買ったのだろうか。パパは、缶コーヒーのプルトップをあけると「あつつ」といいながら飲む。橙子に話しかけない。それが橙子にはうれしかった。

 

 おじいさんが施設に行ってから二週間が過ぎた。橙子はますます無口になった。エマひとりがうるさくしゃべり続け、お母さんはみょうに機嫌がいい。健太は時々お母さんとケンカして、「バカ、ゴミ、うっせい、だまれ!」なんて切れる。そして夜お母さんがパパに報告して叱られた。パパはお母さんのいうことはなんでも信じる。お兄ちゃんの言い分も聞いてあげればいいのにと、橙子は腹がたつ。

 ある日の夕方、リビングにいると、お母さんがそばに来た。

「とうこちゃんにおじいさんから荷物。何かしらね」

 お母さんは興味深々といった目で荷物を見ていたが、橙子は荷物を胸に抱えて二階へあがる。お母さんが階段の下でずっと見ていた。

 ドアを閉めて包みをていねいにはがす。中から出てきたのは、うすいベージュ色の木の箱。A5サイズのノートがはいるくらい。箱のふたには木の絵が描いてあった。どこかで見たことがある木だと、橙子は思った。

(おじいさんの門のところにあった橙の木。おじいさんが描いたんだ)

右端に幹、そこから枝がのびて葉が繁っている。そして、橙の実が三つ。だいだい色に濃淡をつけて本物の実みたいだった。

 ふたを開けると、中には手紙と淡いオレンジ色の本が入っていた。

「橙子、わたしからのプレゼントです。これは本でなく、白いノートだよ。ここになんでもいいから書いてごらん。心にうかんだまま、思ったまま。うれしいこと、悲しいこと、腹立たしいこと、願い、希望・・・

本当になんでもいい。だれにも見せなくていいよ。あとで読んで破って捨ててもいいからとにかく書いてごらん。春休みになったら、遊びにおいで。近くにまっ白い灯台があるそうだよ。一緒に散歩してスケッチしよう。それまでわたしは歩く練習をする。橙子もかぜひかないよう元気でいてください。今度、会える日を楽しみにしています」

 橙子は手紙を何回も読んだ。それから本のようにぶ厚いノートを手にとる。表紙をあけると、罫線も入っていないまっ白いページ。パラパラ繰ってみると最後までまっ白だった。なにも書きこまれていない白い本。

(こんな立派な本みたいなノートになにを書いたらいいの)

橙子は途方にくれる。あとで考えようと箱にしまった。

 橙子は、橙の木が描かれたふたを見つめた。わたしの箱。おじいさんがわたしのために作ってくれた箱。橙子はそっと木の箱を抱きしめる。ほんのりとしたあたたかさが伝わってくるようだった。

 

 晩ご飯はキムチ鍋だった。パパもお母さんもお兄ちゃんもおじいさんのことはなにも言わない。昨日のお昼までいたのに。橙子は言いたかったけど、言えなかった。お母さんは韓国の人気アイドルグループの話をした。なにかはしゃいでいる。パパは「ふーん、そうなんだ」とついていけない。健太は白けた顔で肉ばかり取って食べている。

「エマちゃん、キノコもエビも貝もみーんなしゅきだよ」

 エマは箸でつかんだエビを見せる。

「えらいなあ、エマは、好き嫌いなしだ。お兄ちゃんもとうこちゃんも、小さい時好き嫌いがはげしくてねえ、困ったんだよ。なあ、ママ、エマにはキムチからすぎないか」

「大丈夫よ、ね、エマちゃん」

 辛いもの好きなお母さんはおいしそうにぱくぱく食べている。

「ごちそうさま」

 橙子は小さい声で言うと、席を立つ。

「橙子、もっと食べなきゃ、大きくなれないぞ。エマをみてごらん、すごい食欲だ。今にぬかされるぞ」

 パパはわかってない。そういうこと言わないで。でも言えない。自分の部屋に入るとほっとした。おじいさんの箱を引き出しから取り出す。淡いオレンジ色の表紙の本を開くと、まっさらな白いページが目を射る。おじいさんはなんでもいいから書けと言った。

橙子は鉛筆を持った。お母さんのバカ、パパのバカと書こうと思った。でも、橙子の手が止まった。そんなこと書いたら白いノートが汚れてしまう。

まだ使ってない自由帳があったことを思い出した。そこに書いてみる。バカ、バカ、みんなバカ。おじいさんがいなくなったんだよ。かきなぐった汚い文字の中に怒りや悲しみが少しだけ吸い取られていくようだった。

 

 次の朝、学校へ行く時、エマがパジャマのまま玄関へきた。

「とーこちゃん、おじいちゃんは?どこいったの?」

 目をこすりながら聞く。

「遠くの家へ行ったんだよ」

「あーあ、お絵かき、いっちょにしたかったのに。よーちえんで、オニの絵かいて豆まきするんだよ。とーこちゃんもかく?」

 エマはにこっとわらって奥へかけていった。

 はじめてだ、おじいさんのこと話してくれたの、エマがはじめてだ。学校から帰ったら、エマに、「これからわたしのこと、とーこちゃんと呼ばないでおねえちゃんと呼んでね」

と言ってみよう。エマはどんな顔をするだろうか。

それから、今度の日曜日、自転車でおじいさんが住んでいた家に行ってみよう。水仙やチューリップの芽に水をあげよう。そして家に帰ってから、おじいさんからもらった白い本に書こう。「水をあげた」と。そうだ、地面から出ている緑色の芽の絵も描こう。橙子は大きく息を吸う。きりっとした冷たい空気が胸の奥まで入ってきた。
   

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