挑発的なタイトルである。
結婚せずに三人の子どもを産み、育てた著者が、八十歳を前にして自然と人生は回り持ちだという心境に至り、最期は子どもに委ねて世話になりたいと言う。
波瀾万丈、思うがままに突っ走ってきた女性が、最期は子どもの世話になるというのは矛盾するではないかという見方もあるだろう。
だが、読み進むうちに共感を覚えるのは、あながち文章力のせいだけではあるまい。
“はじめに”で、自分は家族や家庭がとても好きな人間だと言いつつ、子どものために自分のしたいことを我慢するような人生は送りたくなかった、とも述べている。
風通しのいい家族でいるためには、どうすればよいのか。八十歳を目前にして自問自答しつつ、それまでの人生を率直に振り返ったエッセイである。
“第1章 大切に育てることと媚びることは違う”では、子どものために自分を我慢しないかわりにほったらかしにはしなかったと実例を挙げて述べている。
仕事柄、家を空けることも多かったが、その時どきに周囲の人たちの助けを借りて乗り切ってきた。人見知りをしない子に育てたのは大成功だったと述懐している。
桐島流子育てとは、干渉はしないが傍らで観察し、放任ならぬ放牧主義であるという。視界の隅で、さりげなく様子を見ながら、自由に行動させる。子どもの生命力は、遊びを通して育っていくものであるから制限しない。
人生に対して臆病な人間にならないために必要なのは冒険心であり、そのことと異なる環境での放牧とは密接に結びついていたと思われる。
“第2章 傷一つない完璧な家族などいない”“第3章 理想を求めて家族解散”の項では、家族を中心に人間関係のあれこれについて、自身の体験と子供たちの成長を軸に著者の思いが綴られている。
印象的なのは「言葉は精神を引っ張る力がある」という一節。ぞんざいな言葉を使えば人間関係がぞんざいになるし、丁寧な言葉を使えば人への接し方も丁寧になり、より良い関係が築けるだろうと著者は指摘する。
又、三人の子どもたちの結婚についても言及しているが、彼女が挙げる結婚の条件は、「双方が自立した大人であり、生活者であり、一人でも生きられるけれど二人のほうがもっと楽しいという結びつきであること」。まさにその通りだと納得する。
そして“第4章 「林住期」からの人生の楽しみ方”に進んでいく。
著者が「林住期」という言葉と出会ったのは、インドを旅していたときだったという。
ヒンドゥー教には、男子の一生を四つの時期に区切る「四住期=アーシュラマ」という理念があるという。
学問は修行に励む「学生期」
家庭を作り仕事や子育て中心の「家住期」
自分の人生を静かに見直す「林住期」
地位も財産も捨てて死に場所を求める放浪と祈りの余生が「遊行期」
人生を季節に見立てた生き方と言えよう。
桐島にとって「林住期」とは、リタイアではなく、子育てや仕事から解放され、自由の扉が開く収穫の季節であるのだろう。
歳を重ねても友人は作れるし、生活を楽しみつつ、子どもや孫よりも自分を優先して人生の秋(実り)を満喫する貴重な時間となる。
そして美しい老後に向かって進める一歩。
真っ直ぐに懸命に生きてきたから巡ってきた至福の到達点なのだろう。
読み了えて、私も「媚びない老後」を生きたいと思ったことだった。