『十三歳の夏』
乙骨淑子 画:小林与志 あかね書房(1974年発行・1981年16刷)
物語は、主人公の水野利恵が、初めて総武線・小岩の駅前に降り立った場面から始まる。
賑やかな商店街でモツの串焼きを食べて、チンドン屋の一行と出会い、父親が暮らしている知らない女の人の家に向かった。
あずきの煮え立つような匂いのする知らない町に来たかいがあったと、利恵は納得して大きく息をすいこみ次の一歩へと歩き出す。
文中で“あの人”と呼ばれているのは、利恵が二学期から通学する“鎌倉山女学院”で英語の教師をしている叔母である。
いつもきちんと正座をして、英語の原書を読み、注意はしても心から利恵に向き合うことはない。
利恵が生まれてすぐに母が亡くなると、父が家を出たので、利恵は下町の根津で祖母と暮らしていた。古びた長屋で二階にじろにいちゃんとさぶにいちゃん、一階におばあちゃんと利恵、とても楽しい日々だった。
おばあちゃんが亡くなって、利恵は鎌倉に引き取られたのだ。そこには“あの人”の他に、お手伝いのおせいさんと犬のポコがいた。窮屈な暮しのなかで、利恵はポコと心を通わせ、朝夕の散歩がなによりの楽しみとなる。中学校の英語研究会の生徒たちが訪ねてきたとき、利恵は同じ学年の大江なみ子に出会って、親しい友人となった。
ある日、英語の学会に出席した“あの人”の忘れ物を届けた利恵は根津に行き、懐かしい人たちと再会した後、小岩で父と暮らしているお八重さんの家に向かった。パーマ屋を営むお八重さんを手伝いながら一緒に暮らし始めたのだ。明るいお八重さんと過ごす日々は快適だったが、ある晩ポコの夢を見た。氷漬けになって、懸命に外へ出ようとしても厚い氷はびくともしない。悲しげな目は、利恵に助けを求めているようだった。
夜、利恵はさぶにいちゃんに、鎌倉へ帰ろうと思うと告げる。
ポコがそんなに心配かと驚くさぶにいちゃんに、それだけではなく、私は“あの人”のぬけがらと暮らしていたのかもしれない。本当の“あの人”は別の所にいて私が見つけられないのかもしれない……と。もう少しわかるまで鎌倉で暮らしてみようと思った。だから明日鎌倉へ帰る、と言う利恵に、やってみるんだねとうなずくさぶにいちゃんと、利恵は河原を駆け降りて行った。
十三歳の少女のひと夏の経験が、克明に描かれた一冊だった。
利恵の物怖じしない性格は、初めて出会った人たち(チンドン屋、宝くじ売り、お八重さん、大江なみ子等々)ともすぐに打ち解けて、新しい世界を手繰り寄せていく。
鎌倉・根津・小岩、それぞれの町の在り様と共に、そこに生きる人々の表情が読者の前に出現する。読み進めば物語の世界に誘われていくだろう。
昭和という時代の息吹が、すべての章の背景となって、エピソードの一つ一つが懐かしく胸に染み入ってきた。
刊行されてすでに半世紀近くが経過しているが、少しも古びてはいない。私が図書館で借りた本書は1981年発行、7年間で16刷りである。
いったい何人の人が、それぞれの十三歳の夏を利恵と共にしたのだろう。
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