随筆

 12月

  

 「A家とB家」
                  生田 きよみ

 A家は両親と子ども三人の五人家族。生みの母親は上の二人の子どもを残して天国へ旅立った。後に父親が再婚し、子どもが一人生まれ現在に至っている。

上の二人の子どもは新しい母親になじめず無口だ。母親も自分の方から二人の子どもに近づいていこうとしない。一番下の子だけがくったくなく一人でしゃべっている。

 B家は子ども二人の四人家族。両親は共働きで毎日とても忙しい。3LDKのマンションで住んでいる。和室で四人布団を並べて寝て、食事も勉強も食卓でする。いつも四人でワイワイ、ガヤガヤ賑やかだ。

B家の子ども達は両親が遅い帰宅の時は簡単なご飯を作ったりして二人で食べる。よく遊びよく笑う。姉妹ケンカで泣いたり、叫んだり。しかし、四人の家族はいつも楽しそうだ。

 両親にしっかりと愛されていることを当たり前に思っているB家の子ども達。

A家の子ども達は言いたいことがあってもじっと我慢している。だから笑顔がない。

 子どもの性格は生まれ持った素質や遺伝子だけで形作られるのだろうか。A家とB家の子ども達を見ていると、生育環境によって随分と変わって来るように思える。

 しかし、生まれてくる子どもは親を選べない。それぞれの家庭環境の中で自分の運命を受け入れて逞しく伸びてほしいと願うばかりだ。

 複雑な家庭環境にあって、愛されない哀しみや様々な葛藤は、長じて他人の気持ちを理解できる心や思いやりのある心を育むと思う。

 心に鬱屈を抱える子どもの気持ちをすくい上げ、寄り添うような物語を書きたいがしんどくなる時もある。そんな時は楽しい物語を書きたくなる。

B家の子どもがいった。「暗い話は好きじゃない。楽しい話や面白いのが好き」と。

そうか、自分の境遇をなぞるような話は読みたくないのかもしれない。それより、元気の出る楽しい話のほうが別の世界に遊べて楽しいのだろうかと、思った。

子どもに寄り添って、書くだけでなく、元気や希望がちりばめられた物語を書きたい。言うは易し、行うは難し。わたしにとってとても難しいことだがそれを目指して頑張りたいと思っている。




 11月

 「カニの本」

 

 「カニの本」という本が好きだった。

 小学六年生の時に出会った本だ。

 その頃、私は病気で三か月ほど学校を休んでいた。だるくて、一日中布団の中にいて、小窓から少しだけ見える空を見て、空想をしたり、本を読んだり、ラジオを聞いて過ごしていた。

 その頃のラジオ番組に「本」の紹介をする番組があって、「カニの本」が紹介された。

 私は読みたくて、買ってきてもらった。

 何が私の心をとらえたかというとその副題が気に入ったのだ。「子供を悪くする手引き」という。

 小さなころから私は可愛げが無いといわれた。甘えるのが下手だったというか、大人に対して批判的だったのだろう。

 大人は、平気でうそをつく。行く気もないくせに「今度連れてってあげる」という。絶対買わないのに「今度買ってあげる」という。

 大人というか、母は私に可愛い服を着せたがった。しかも妹とおそろいのを。連れて歩いている娘二人が「可愛いいお嬢さん達ですね」と言われるのが好きだったからだ。可愛いい娘を連れている自分が好きだったんだ。子供のころから、私はそれを見抜いていた。可愛げがないからね。

 𠮟り言葉は「そんなことをしたら下品ですよ」これには私も支配された。上品に見えるように上品にふるまって、上品な人になろうかなと。大人になって「他人を下品だと思うことが下品だ」と友達に言われるまで。この言葉に私は赤面したよ。

 「カニの本」に書いてあった。

嘘つきにしたかったら、子供にうそをついて見せなさい。

 見栄坊な人にしたかったら、着飾らせなさい。

 傲慢な人にさせたければ、他人を見下して見せなさい。等々。

 子供の時に大人の手の内を知った私は、「その手に乗るものか」と大人をにらみつけていた。その結果、ますます、どんどん可愛げのない子は可愛くない娘に育ったのだ。

 だから、今更「可愛いいお婆さん」にはならんのじゃ。


 10

 

失敗して出会ったもの

            青山 和子

 

飯能市の川寺に、今年九十四歳になる叔母が、子どもたちと暮らしている。

父の兄弟は五人だったが、既に四人が他界して、一人健在なのが川寺の志づ子叔母である。

六月末に叔母を訪ねたときのこと、ちょっとした勘違いで、行き先の違うバスに乗ってしまった。<青梅行き>に乗るべきところ<名栗車庫行き>に乗車したのである。

乗車して間もなく、なんだかおかしいなと不安がよぎった。車窓から見える風景が、いつもと違っているのだ。停留所の名前も聞き覚えがない。

まさか、と思いながら恐る恐る運転士に確認すると「川寺は通りません」とのこと。既に乗ってから二十分が過ぎていた。

次の停留所で下車して辺りを見回すと、七十代くらいの女性が畑仕事をしていた。

携帯電話を持たない私は連絡手段がなく、「すみません。この近くに公衆電話はありませんか?」と聞いてみた。

「今のバスで来たの?」

「はい、乗り間違えてしまったんです」

「そりゃあ大変だね。公衆電話はないので、すぐそこだから家のを使いなさいよ。戻りのバスは何時に来るの?」

「ありがとうございます。あと四十分くらいで飯能行きが来ますので……」

ご好意に甘えて電話を使わせてもらった上バスが来るまで休んでいきなさいと、冷たい麦茶までいただいて、地獄に仏とはまさにこのことと、只々感謝するしかなかった。

御礼のしようもなく、たまたまバッグに入れてあったお菓子の袋を押しつけるように受け取ってもらい、二時間ほど遅れたものの、無事に叔母の家に行き着いたのだった。

一連の出来事を報告すると、叔母が感に堪えないように言った。

「まだまだ、そういう親切な人がいるんだねえ。ホッとするよ。お前も困った人がいたら助けてあげなさいよ」

この叔母は編み物が得意で、私たちが子どものころは、遠足やお正月を迎えるたびにセーターを編んでくれた。

今は、“私が生きているうちに”と、余った毛糸で私や妹たちのベストを編んでくれている。ボケ防止と称しているが、なかなか出来ることではない。

 

お名前も伺いそびれてしまったが、あの“坂の下”というバス停近くのおかあさんとの出会いは、大切な宝物の思い出として私の胸に留めておきたい。

 

 

6月

 「傘」           辻 邦

 

 傘にはランドセルが良く似合う。

 ちいさな体に大きすぎるランドセル。

 その上傘まで差さなければならなくては大変!

 健気げな姿に「似合う」はないか。

 でも、子どもが傘をさす姿は、ひと際愛らしい。

 幼い子どもは、傘が好きだ。一人で傘を持たせてもらったときの嬉しそうな顔。

 

 予期せぬ天候の激変で、子ども達が濡れて帰るとわかった時、傘を持って迎えに行くではなく、私は風呂を沸かして帰りを待った。ずぶぬれになって帰った我が子に「さー、お風呂に入って!」というために。

 強い雨の日、今は、玄関にバスタオルを積み上げている。帰宅した孫たちが、玄関で身ぐるみ脱いで、バスタオルにくるまることが出来るようにだ。その後、着替えだけするのか、シャワー浴びるのか、風呂を沸かして入るのかは知らない。婆の関与すべきことでは無いような気がするからだ。二世帯住宅の治外法権。

 

 雨が降ったからと言って、大概の人は生活を変えない。傘をさして暮らす。

 雨が降りやまない星に住むというSF小説を読んだ時、えも言われぬ恐怖を感じた。止まない雨・私には受け入れられない。

 でも、記録的な長雨でも、人は受け入れる。受け入れるしかないから仕方が無いのだが、止まない雨はないと信じているから、我慢する。

 

 傘ってすごいお役立ちアイテムだよね。傘をさすと、小さな屋根が出来るんだ。屋根を持って歩く。屋根があると、安心できる。守られている気がする。

 東京大空襲の時、傘を持って逃げたと話してくれた銀座のバーのママさんがいた。その人は、17歳の時空襲にあった話をお客さんに話すのが好きだった、「なんでだか知らないけど、あたし傘持って逃げたのよ」と朗らかに笑って。悲惨な体験だったろうけれど、傘が逃げ道を作っていた。

 縄文人は、雨の時、どうしていたのかな。大きなはっぱを頭に載せたのかな。

 5月号
  
コロナ禍の中で   生田きよみ

道行く人は皆マスク姿。大人も小さい子どもも。顔半分を覆っている。これで帽子でもかぶっていたら、知人でも分からないことがある。こんな状態がもう一年以上続いている。

 このような状況下でオリンピックが開かれようとしている。海外から選手、関係者が何万人もやってくる。限りある病床数や医療従事者。今、コロナに感染した国民でさえ入院できないのにどうするのだろうととても不安だ。大阪では自宅療養者が一万人を越している。ワクチン接種も遅々として進んでないのに。政府の無策ぶりが腹立たしい。

 様々な制限化で生活している子ども達。遠足、修学旅行、校外学習、運動会、音楽発表会など。今年も昨年同様、延期または中止に追い込まれている学校もあると聞く。

 政治家はこの一年、第一波、二波、三波の検証をして、第四波に備えてきたのだろうか。ワクチン接種も医療従事者でさえまだ打っていない人が大勢いる。高齢者に対しての接種も遅々として進まない。

 また、政治家から国民にむけて命を守るというメッセージが全く伝わってこない。残念で悲しいことだ。でも、そういう政治家を選んだのは私達国民。

 私達にできることは選挙の投票権だけだ。選挙に行こう。保身しか考えていない議員は落とそう。

 子ども達が未来に希望を持てる国にするのは、我々大人たちだ。子どもはたくましい。過去を振り返らない。目をいつも前にむけている。どの子にも幸せになってほしいと強く願う。私達大人の責任は重い。

 

 4月号
 

「同仁学院」のこと   青山 和子

 

私が暮らしている町に、児童養護施設「同仁学院」があります。

戦時中、都内から疎開してきた関根幸一郎夫妻が家族とともに定住し、戦災孤児の保護を皮切りに設立しました。その後、家族のなかで暮らせない子どもたちを受け入れ、昭和二十四年には児童養護施設として認可され七十年以上の歳月が経過しました。

現在は孫の歩さんが院長として健闘して三世代に亘る歴史を繋いでいます。

私が関わったのは、地域に開かれた施設という目的で「なかよし文庫」が始まったことからでした。友人と共に、毎週土曜日の午後、本の貸出しやさまざまなイベントに参加することを通じて、少しずつ子どもたちや職員の方たちとも親しくなることが出来ました。

当時の理事長だった関根ヒメさんに、深く学んだことがあります。たまたま、個人的にお話しする機会があったときに言われたことでした。

乳児院を経てやってきた幼児が、職員に対して「てんてー(先生)」と呼びかけてきたのだそうです。そのときヒメさんは、

「ここは学校じゃないのよ。家族なのだから先生はいないの」

と言って、“○○お兄さん”“○○お姉さん”と呼ぶようにしたのだそうです。

それは七十年を経た今も続いていて、職員を先生と呼ぶ子はいません。

これこそが同仁学院の根っこの部分であり、家庭的な養育を支えているのでしょう。施設という枠を超えて繋がっている温かさが、地域のなかにもしっかりと受け止められていると感じます。

一人一人異なった環境で育ってきた子どもたちですから、日々暮らしていくなかには、目に見えない大変さ、困難さは、数えきれないほどあります。それらを一つずつクリアーしていくことによって、次の一歩を踏み出せると信じながら、ささやかなお手伝いがしていければと思うこと頻りです。

巣立っていった子どもたちのなかには、大工さんになって建物の修理に来てくれる子(といっても、もう四十代後半)もいるとのことです。

コロナ禍で今年は出来ませんでしたが、毎年二月に開かれる“まゆ玉会”には、卒院した子どもたちも訪ねてきます。いくつになっても帰る場所なのでしょう。

昨年からは、乳児院「さまりあ」も併設されました。

「同仁」というのは、誰でも等しく幸せにという意味がこめられているのだそうです。

自分の暮らす地域に「同仁学院」が存在しているということの意義を改めて噛みしめながら、これからも伴走していきたいとう日々です。

 

 3月号

「未来図」  辻 邦

 子供の頃、私の未来は、晴れ渡った青空のように、限りなく広がっていた。

 雑誌「小学三年生」のグラビアには、ニューヨークのエンパイアステートビルのようなビルが立ち並び、そのビルをつなぐように幾重にも道路が重なって走り、地下にも街が出来ていて、電車が走っている色鮮やかな近未来都市の図が載っていた。

 あれから67年。私は、未来に生き、未来都市に住んでいる。

 私が住んでいる辺りは、昔とあまり変わりのない住宅街だが、立ち並ぶ家はそれぞれ未来の機能を備えている。食品の保存は冷蔵庫。掃除は電気掃除機。洗濯は全自動洗濯機。家に居て映画が見られるし、食べたいときにアイスクリームも食べられる。電話の普及どころか、遠く離れた友人と顔を見て話せる。そしてその機能を持ち運べる携帯電話が当たり前。想像を超えた未来の世界に住んでいる。

 快適で便利で感謝している。

 だが…。

 今、未来図を描くとしたらどんな世界が広がるのか。

 空気は汚染され、温暖化で海水面が上がり、様々なウイルスが世界をパンデミックに陥れ、ロボットの助けなしには暮らせない危険な世界?

 人間は環境を調整できるように街に覆いをかぶせ、水耕栽培の野菜を食べ、バーチャルな経験を楽しみ、作り物の犬を飼うの?

 私の孫たちが生きる未来をどんなものにしてあげられるのか、もっと早くから考えてあげればよかった。想像力が無かった。


       
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