ーKazunaga/Tsuji

        《これまでの私》 

 これから連載という形で、故郷佐賀にいた時から今までの人生を振り返るために話をしていこうと思います。
そのうちに私という俳優が、男が、人間が見えてくるんではないかなあと思っています。どうぞお付き合いください。
 なお、連載のバックナンバーは後ろの方にあります。初めての方は第一回からお読みください。

……自分を振り返って……第三回 

                  

   ■佐賀高校演劇部へ■
 
ぼくが俳優になろうと決心したきっかけについて話したいと思います。
 
 十六歳のころ、ぼくがやりたかったことは、設計図を引いてそれを立体化することでした。建築でも機械でも電気でも、簡単な工作でも、何でもよかったのです。そういう夢があって、高校は工業高校へ進むつもりでした。ところが、クラス一人一人の能力と可能性を、そして広い意味での適性を親身になって考えてくれていた担任の三好勝先生が、「これからは大学の工科を出なければ仕事をしていくのに不利だ」と言われた。それでぼくは工科大学を目指して、まずは普通高校へ進学することにしたわけです。
  先生のメッセージはいま思うと、ぼくの場合は「きみのように気が小さいところがある男は、できるだけ肩書きをつけてから社会に出た方がやっていけるだろう」という教えが入っていたのかもしれませんね。そんな気がします。同じ同級生でも、工業高校に入って設計事務所を開いて成功しているのがいます。園田克成くんというんですが、いまは悠々自適、佐賀のぼくの後援会「さがきら」の事務局長をやってくれて、大いにお世話になってます。この「さがきら」のことはあとでお話しします。
  ぼくが入った高校は佐賀県立佐賀高等学校という、佐賀県内全域から生徒が集まってくるマンモス校でした。一応、佐賀県随一の優秀校でしたから、とりあえずの目的は果たしたんですが、前にも言いましたように、根が短気でこらえ性がありませんから、三年先の工科大学受験のための勉強をやっているよりも、即、図面を引いてなにかモノが作りたいという気持ちが強かった。
  そんなとき、たまたま廊下に貼ってあった「演劇部の新入部員の募集」というポスターに出会ったんです。運命なんですかねぇ。「まてよ、演劇部なら舞台装置の図面が引けて、たしか大道具というものが作れる」と、そのときチラッと思ってしまったんです。
  何度も言いますがせっかちですからね、次の日の放課後には演劇部の部室を訪ねていました。ところが、その部室へいって驚きました。春の「創立記念祭」公演の稽古中だったんです。それまで、演劇というと小、中学校の学芸会しか知らなかったし、それしか演ったことがなかったものですから、その部室の空気、先輩たちの表情、稽古の雰囲気にはちょっとびっくりしました。「なんだろう、このピーンと張りつめた雰囲気は」って思いました。だいたい学芸会では普段の成績がものをいいますね。級長が主役、クラスでなにか係をやっている者が大きな役に付きますね。
  やっぱりこの四月に佐賀へ帰ったときのことですが、ぼくが帰省するのに合わせて中学校のときの同窓会をやってくれたんです。そのときの話題で、小学校、中学校と一緒でいつも級長だった女性に「洋子ちゃんは学芸会はいつも主役だっただろう」って聞いたんですが、当然のように「うん」と返事しました。ところが、ぼくはいつも〈うさぎさん4〉とか〈たぬきさん5〉とかいうような役にしかつけないわけですね。要するに、その他大勢の役にしかついたことがなかったんです。でも、動物はまだいい方で、植物のときもありましたからね。植物でも〈花〉ならいいんですが〈草〉だった。
  そうなると、そこにいるだけで「そうだ、そうだ」って言ってりゃいいわけで、なんの緊張感もない。早い話が、病気で欠席しても、公演はなんの問題もなく行われる。そういう演劇しか知らないし、体験していないわけだから、演劇部の稽古場に入った瞬間に「なんか違う」と思ったし、尻込みしたという感じでした。うさぎさん、たぬきさん、おじいさん、おばあさんの世界じゃないんです。変な言い方ですが、「人が話してる」っていう、普通の人の会話がそこにあったんです。雰囲気が真剣といいますか、上がり症のぼくには厳しい状況でした。緊張しましたね。でも、その日にすぐに入部させてもらうことができました。
  毎日、放課後にはぼくら一年生がいる市の外れの〈北校舎〉から、中心部の〈西校舎〉に移動しての部活動でした。ぼくらが授業を受ける北校舎は、田圃のど真ん中にありましたから、移動には自転車で二十分ぐらいの道のりでした。余談ですが、つい最近気がついたんですが、佐賀市は平らな町なんですね。本当に佐賀平野なんです。ですから、自転車での移動は楽でした。
 
  ■舞台装置担当■
 
 部活と言ったって、僕は隅のほうで稽古を観ているだけでした。ただ稽古を観ているだけで、その年の春の「創立記念祭」公演は終ってしまいました。しばらくして、幸運にも僕の希望は実現したんです。秋の文化祭公演の舞台装置担当にしてもらえたんです。まあ、舞台装置をやりたいなんていうような希望者は他にいないので、無条件で採用ですよね。
  さっそく舞台装置の図面作成に取り掛かりました。ところが、舞台装置がどういうふうに作られるのかも分かりませんし、材料も分かりません。塗料も分かりません。立て込みかたも分かりません。早い話が何も分かりません。ぜんぜん経験のないことでしたからね。舞台装置の専門書を探しましたが、佐賀にはありませんでした。まあ、正確に言えば、ぼくには見つけられませんでした。だから、試行錯誤というやつですかね。ああでもないこうでもないと、いろいろ考えました。でも、図面を引きたい、そして製作したいという欲望は、そういうふうなことを考える過程が好きだからで、苦になるどころか、それが楽しかったんです。何枚図面を引いたか分かりません。そのころのことを思い出すと、学業はおろそかでしたが本当に一日が充実していました。
  材木屋に行っていろんな質問をして、値段を聞いて、どの材木が一番適当かを決める。ぼくの伯父さんが大工だったので、作り方を相談したり。忙しかったけど、楽しい毎日でした。これはどうなるんだろう、あれはどうなるんだろうって考えながらやるっていうことが楽しかったんですね。それまで何かを作っていたときとは感覚が違う。なにしろ、ぼくが作って出来上がった物が人に見られるんです。少なくとも部員のみんなには注目してもらえる。それまでは、何か作っても家族の者か、せいぜい近所のみなさんが見る程度でしたからね。
  先輩の経験も聞きながら、「よし、自分のアイデアで作っていこう」と思って始まり、装置図も完成して、材料も決め、予算も立て、部長の「OK」をもらって、夏休み返上で製作に入りました。舞台装置が希望だという変わった新人部員がよほど珍しかったんでしょうね、それで先輩にも大事にしてもらいました。普通は、俳優になりたいとかいう人間が入部を希望してくるんですからね。それが「大道具作らしてください」っていうのがきたんですからね。みんな、ものすごく協力してくれて、大道具を完成させました。同級生の女子部員の協力もすごかったです。それが「いいものを作るぞ」という励みになりましたね。
  自分の三年間の演劇部の活動状況をふり返ると、この一年生のときが一番良かったように思います。そのときの部長の人徳だったんでしょうね。チームワークがよくて、建設的でした。ぼくが二年生になって部長になってからは、何かこう、ギクシャクして、高校の演劇部の部活動としては健全ではなかったように思います。二年生のはじめにはすでに俳優になろうと燃え上がっていた時期ですから、みんなの部活動なのに自分一人の意志だけが先行していたんじゃないかと思います。もしあのとき、ぼくがちゃんとした部長だったら、「芝居は楽しい」という部員がもっと出てきたと思うんですね。ぼくと、ぼくの一期下の村井国夫だけですからね、そのあとも演劇の道に進んだのは。ちょっと反省する部分もあります。
  まあともかく、図面通りに完成した大道具を部室に当てがわれていた教室に組み立てました。教室は小さいですから、いや、部室としては大きいんですが、舞台に比べたら、という意味です。そこに舞台と同じ大きさの装置を立てるのは困難です。それで、天井の低い教室でも組み立てられるように、ぼくは装置の高さが変えられる工夫をしてたんです。ちゃんと考えてあった。それで、狭い部室の中に装置が立ったんで、先輩たちがびっくりして喜んでくれました。本番と同じ状態で稽古ができるなんてはじめてだったんですね。
 〈ある医院の居間と台所。上手のほうに診療所の受付が見える〉といった大道具でした。稽古中からドアもあれば窓もある。テーブルも椅子もキッチンもあるという状態で、本番とほぼ同じ状態で稽古ができるわけですね。放課後、部室の隅のほうで稽古を観てるのが楽しかったんです。自分の設計で形になったものを人が喜んで使ってくれてるということが楽しかった。
  本番と同じものを使って稽古ができるというのは、俳優はもちろんですが、俳優だけじゃなくて演出家も他のスタッフも、創造する上での助けになるんです。プロの世界でも、製作費が少なかったころは稽古場に用意できる大道具、小道具、その他も少なくて、ほとんどが代用品でした。装置も、稽古場の床にビニールテープが貼ってあるだけということが多かったんです。「ここからが階段です。ここの赤いテープの所は一尺高くなっています。ここにドアがあって、外開きです。この黄色いテープは壁ですから通れません」というように、説明だけの装置でした。言ってみれば、新聞に入ってくる分譲住宅の見取り図のでっかいのの上で稽古をしてるようなものだったんですね。
 ちなみに、蜷川幸雄さんの場合、いわゆる「蜷川組」は大いに違いました。衣装から小道具まで本番にごく近いものや、本番そのものが稽古初日から用意されています。装置もほぼ本番と同じ機能をするものが用意されます。稽古場によっては天井から落ちてくる馬まで良いされていて、稽古中から落ちてくるんです。これは全世界でも稀でした。
  話がちょっと逸れましたが、だから、そのころは舞台稽古になってからが大変でした。こんなはずじゃなかったということがたくさん出てくるんです。舞台で稽古がはじまったら、実際にドアがついているので出入りに時間がかかったり、本当に段差のある階段で脚の揚げ方が足りなくてけつまずいたり、予期せぬことが起るんです。いまでもそういう稽古場はあるんでしょうが、かなり少なくなったんじゃないかと思います。その点、このときの佐賀高校の演劇部は進んでいたんですね。プロ以上の条件で稽古をしていたんですからね。
 
  ■突然、俳優になる■
 
 ところがとんでもないことに、大道具係新人のぼくが、俳優として出演することになっちゃったんです。佐賀はよく言われるように、やはり封建的なところなんですかね。演劇部なんかに入るような男子は少ないんです。その年の男子の新入部員はぼく一人だけしかいませんでした。二年生の先輩も男子は三人しかいなかった。そのうちの二人が父親の役と婚約者の役です。もう一人の先輩は「チョイ役」だった。で、その先輩は「チョイ役」だからということで出演を拒否ですよ。「もう俺、演劇部を辞めて受験勉強に入る」と言って受験勉強に入って、いなくなっちゃいました。それで、ひとが一人足りなくなったんです。「チョイ役」の男が足りなくなった。それでぼくに回ってきたわけですね。
  台詞は二つありました。「ただいま」というのと「雪になったよ」の二つです。高校生の役で、劇の終わりの方で学校から帰ってくるんですが、そのときに「ただいま」とひとつめの台詞です。ああ、これだったらぼくにもできるかなあと思って、「はい、分かりました。やってみます」っていうことで受けたんですけどもね……。
  この芝居の内容を、かいつまんで言いますと、家では、長女の結婚話でもめにもめている。やっと話がうまくいきかけて、二人の結婚を祝ってやろうね、という段になったんですが、まだ空気が和まない。そんな中、ぼくが扮する弟が学校から帰ってきて、ひとつ目の台詞「ただいま」という設定です。母親がぼくに、「遅かったのね。すぐに風呂を沸かしてね」と言って、その場を取りつくろう。ぼくは、なにか変な空気を察して、風呂を沸かしにすぐに勝手口へ出て行く。居間では気まずさを残しながらも少しずつ話は進む。ところが、もうひとつ何かのキッカケがあれば空気はさっと打ち解けるというところへ、ぼくが「雪になったよ」と勝手口から飛び込んでくるんですね。ぼくが人さし指で鼻の下をなでて鼻水をズズッとすすると、手についていた黒い炭が鼻の下にくっついて髭のようなかたちになる。そんな髭のできたぼくの顔を見た家族と婚約者は「あは、あは、あはははは」と顔がほころび、笑い出し、やがてだんだん笑い声が大きくなり、最後は大笑いになって幕が下りる。そういう役だったんです。感動的な役なんですよ。
  鼻水をズズッとすすり、指で鼻の下をなでるというのは台本にはなく、演出の先輩のアイデアだった。しかし、ぼくの演技が下手なのか、それがなかなかその場を和ませるようにならない。それで、指にドーランをつけておいて、なでると鼻ヒゲができるというのをやってみた。すると、演出の先輩から「OK」が出て採用されました。最後にお客さんの笑いをとって、ハイ、ジャンジャンとなるような芝居ですからね。
  で、その、稽古をみんなとやっていくうちに、家族の温かさに似たものが生まれてきて、楽しくなってきて、恥ずかしいとか、嫌だなーとか思うことがどんどんどんどんなくなっていくんですよね。「芝居の毒」ってよく言いますけどもね、芝居っていうのはそういうところがあるんですよ、やっぱり。交流をしたり、生活をしてるっていうことを舞台でやってるんだけども、それが、自分の中になにかしら残ってきて、それが人間同士の温かいつながりになってくるんですね。だから、よく芝居やってると恋愛が生まれたり離婚が成立したり、いろいろありますけど、そのくらいやっぱり人の精神っていうか、気持ちを動かしちゃうんですね、芝居っていうのは。それを「芝居の毒」と言うんでしょうけど、一回それに染まっちゃうとなかなかそれから抜けられないっていうことがあるんです。まあ、そういう状態で、ぼくは芝居をすることがどんどんどんどん楽しくなっていったんです。
 稽古が終わると、いつのまにか話し合いがはじまってるんです。高校生なのに、結婚についてとか、父親の考え方とか娘のあり方とかみたいなことを討論してるわけですよ。たぶん演劇部でなければ経験できないことをやってたんですね。図書部や読書同好会というようなところでも、家族や愛について話し合うんだと思います。でも、たとえ話し合うことはあっても演じることはないわけですからね、そういう部では。あの経験は、いま俳優をやっている自分の、人間としていろいろ考えることの出発だったのかもしれないと思いますね。
 
第四回をご期待ください。10日間隔で更新します。
 
    
 ……自分を振り返って……第一回
                              

紙屋町の長谷川清海軍大将に入る前、スタジオで


 
■はじめにちょっと■
 
 みなさん、こんにちは。辻萬長(つじばんちょう)です。職業は新劇俳優です。
 ぼくの名前は、本当は〈ツジ・カズナガ〉と読むんですが、そう呼ぶのは親兄弟と親戚ぐらいで、仕事場では〈ツジ・バンチョウ〉で通っています。ですから、みなさんもそう覚えて下さって結構です。よろしくお願いします。
 
 ぼくの所属は「こまつ座」という劇団です。ぼくがいま一番やりたい芝居、やっていたい芝居が〈井上ひさし作品〉なんです。だから、井上作品だけを上演している「こまつ座」に所属して、井上作品を中心に芝居ができるのは、新劇俳優が夢だったぼくには幸せのひとことにつきるんです。
 
 はじめてぼくが新劇を観て、芝居の世界へ入ろうと決めたころの新劇と、いまの新劇ではかなり違ってきてます。「新劇とは何か」と聞かれた場合にどう答えるかは、新劇俳優それぞれ答えが違うと思います。それくらいそれぞれの想いに違いがあるようです。よく言えば幅が広い、悪く言えば定義の仕様がないくらい大雑把で、なんでもかんでも、といった感じもあります。時代も人種も超えたところで、それぞれが真実を求めて、人として、人間として大切にしなければならないものはなんだろう、と考えていこうとしているもの、そういうものが「新劇」なのかなぁとぼくは思ってるんですけれども。
 
 なにが変わったかと言うと、「芝居はまず娯楽」という考え方がむかしに比べてはっきりしてきたということです。たとえば、井上作品には「考えさせられること」の他に〈笑い〉、〈悲しみ〉、それと〈娯楽〉があります。井上さんの言葉に「むずかしいことを やさしく、やさしいことを ふかく、ふかいことを おもしろく」というのがありますが、ぼくが魅力を感じている新劇というのはそれなんですね。
これからお話することはぼくの独断なんです。細かく調査してのことじゃありませんし、ぼくの思い込みがかなり入っています。ぼくの想像も願望も入っています。だから、真実あるいは真理では決してありません。でも、ぼくは「こう思う」とか「こう感じている」ということに嘘はありません。それに、罪のない話では、ちょっと面白くするために誇張があったり嘘があったりするでしょう。辻萬長っていうのはこういう男なんだ、こういうことを考えてる俳優なんだ、というふうに思って聞いて下されば嬉しいわけです。
 
 それで、何の話からはじめるのがいいかと考えましたが、やっぱり、順を追って話していくのが一番いい。まずは、ぼくがどんな子どもだったのか、どんな家庭で育ったのか、そこでどんな暮らしをしていたのか、遊びをしていたのか、そういったことをかいつまんでお話ししようと思います。
 
 そのつぎに、ぼくが俳優をやりたいと決心したときのことからはじめて、これまでやってきた作品のことや出会ったいろんな人たちのこと、心に残ったことを話していけば、自然に話は成り立っていくんではないかと考えてます。みなさんがそこからなにごとかを感じたり、発見したり、吸収してくださったりしてくれればいいなぁ、と思います。
 
■ツジバンチョウという名前■
 
 では、始めましょう。ぼくは昭和十九年(一九四四年)、佐賀県の生まれです。昭和二十年が敗戦ですから、一応は戦中派というんですかね。でも、戦時中のことは何も記憶にない戦中派です。戦時中もそうだったし、戦争末期も、そして敗戦後も同じだったと思うんですが、あの時代っていうのは、食うものも着るものも、薬も、医療も何から何までないものづくしの時代だったのでしょうね。
 物心がついたときから周囲もみんな貧しかったですから、貧しいのが普通のことだったのです。いまいろいろ話を聞いたり本を読んだり映像を見たりして、「ああ、あれが戦争だったのだ。敗戦後の貧困の時代だったのだ」と思うんですが、ぼくの記憶にいくらか“戦争”があるってことですね。
 
 家業は豆腐屋でした。長男です。下に妹と弟。三人兄弟です。ぼくの名前の〈萬長〉は〈萬物の長〉からきています。〈全てのものの長〉になるようにと父が付けてくれたんですが、本人も読みかたには迷ったと言ってました。
〈カズ・ナガ〉と訓読みを付けてくれたのは、そのころ家に出入りをしていた坊さんだそうです。仏教の世界で数字は〈カズ〉と読む習わしがあるんだそうですね。実際、〈萬彦〉と書いて〈カズヒコ〉とか、〈萬夫〉と書いて〈カズオ〉と読む人に会ったことがあります。どちらもお寺のご子息でした。皆さんは「一彦」はなんの抵抗もなく「かずひこ」と読みますよね。これをまたしかりで、「一」は数字の代表だから「かず」と読むんです。
 小学校の何年生の時かは定かじゃないんですが、答案用紙の名前の欄に、漢字で自分の名前を書いて、〈つじばんちょう〉とフリガナをふったことがあります。それで「おまえはバカかッ! 立派な読み方があるのに」って父に怒られた思い出があります。
よく「芸名ですか?」と聞かれます。もし芸名で付けようと思っても、こんないい名前は思いつかないだろうと思います。いい名前をありがとうと、父に大いに感謝しています。
 
■たくさん子どもが死んでいった■
 
 物心ついたかつかないかのころ、かすかに覚えているのですが、母の背中で大泣きしていた自分があります。母は急ぎ足で歩いていたように覚えています。あとで聞いて分かったのですが、それは、ぼくが二歳になったばかりのときに栄養状態の悪さから風邪をこじらせて肺炎になった、そのときの記憶なんですね。ぼくを背負って病院へ連れて行ってくれている母の記憶です。後で聞いた話ですが、母は「この子は死ぬのかと覚悟してた」んだそうです。
 これはぼくだけが特別だったんではなくて、その当時の多くの子どもが同じことを経験していると思います。じつは、いままでの親不孝の償いにと、父の卒寿と、母の米寿を祝うために帰省したときも、その話を母としたんですが、実際、近所でもたくさんの子どもが死んでいったそうです。ぼくの世代の人たちに死にかけた経験のある人はずいぶん多いようです。同世代の人間と話しているとそういう話を聞きますから、全国的にそうだったようですね。
 
 そのときぼくはカンフル注射を打ってもらったそうですが、粗悪な薬がうまく身体に馴染まず、固まって、そこから化膿して手術をしたそうです。そのあとが太股に残っていて、小さいときに何度となくその話を聞きました。それに、もともとぼくは虚弱体質で、食は細いし、胃腸が弱い、元気に欠ける子どもだったのです。妹のほうはがっちりと育って、健康優良児の表彰をもらったそうです。妹は二つ年下ですが、中学に入るまでは彼女のほうがぼくより身体が大きかったんです。現在はぼくの方が大きくなりましたが、いまでも初対面の人には「お姉さんですか?」と言われますから、根っからの貫録の違いでしょうか。
 ぼくは東京でいうところの「早生まれ」で、クラスでも体が小さい方でした。ぼくは二月九日生まれですから、佐賀では「遅生まれ」と言っていたのです。普通は、二月生まれを「早生まれ」と言うらしいですね。一年間の中では四月二日より早く生まれたからたしかに「早生まれ」でしょうが、同じ学年の中では次の年、つまり一年遅い生まれですから「遅生まれ」です。ぼくは「遅生まれ」という佐賀の考え方が正しいと信じています。でもまあ、どっちでもいい、だからどうなんだ、という話です。
 このことといっしょに上京したてのころのことで思い出されるのは、時計が合ってなくて実際よりも早い状態を、佐賀では「時計ノ急ぎヨッ(時計が急いでいる)」と言うんですが、ぼくがそう言うと、「時計は急がないだろう。進んでいるんだよ」ってみんなに笑われました。余談ですが、そんなことを思い出します。
 
■父親ゆずりの上がり症■
 
 それと、ぼくは極端に気が小さくて、上がり症で、赤面症で、授業中にどんなに自信のある答でも、答えるとなると大きな声が出なかったことを思い出します。心臓はドキドキして落ち着かない。でも、負けず嫌いなところはあったみたいで、答えずにはおれなくなって手を上げるんです。ところが、指名されて立ち上がると、真っ赤になって心臓が踊り出す。そういうことがままありました。
 小学六年生のときの運動会のクラス対抗リレーの選手を決めるときのことでした。それまでの五年間、いつも徒競走でうしろから数えた方が早かったぼくが、そのときはじめて前から四人目でゴールしたんです。自分でも信じられない出来事でした。そして、クラス代表選手十人の一人に選ばれたんです。もう人生がパッと明るくなった気分で、運動会の日まで毎日家の回りを走っていました。
 そのころ、佐賀の町にはまだ荷馬車が走っていて、あっちこっちに馬糞が落ちていました。ぼくらは、その馬糞を裸足で踏むと走りが速くなると信じていたんですね。普段はそんなことはやらないし、忘れているんですが、運動会が近くなると急にそのことを思い出したりして、そこら辺を歩いてあっちこっちで馬糞を大いに踏んづけました。
いよいよ運動会当日がやってきたんですが、結果からいえば馬糞の効果はまるでなかった。惨憺たるものでした。バトンを受け取ってからはもう上がってしまって、自分の足が思うように動かないんです。次から次に追い抜かれて、とうとうビリです。ちょうど夢の中でなにかに追われて逃げようとして一生懸命、必死で走るけど、前へ進まない状態と同じですね。
 大人になってから、あるとき父がぼくに言ったんですが、「上がり症はおれの血筋だ」って。父は軍隊のころ、訓練のときの射撃の成績は上の上、百発百中とはいかないまでも、すこぶる成績がよかったそうです。それで、小隊対抗の射撃大会の代表選手に選ばれる。ところが、試合当日は上がってしまって一発も命中せず、最下位の成績で、小隊長から大目玉を食らったって言ってました。でも、射撃の腕のよさは本当でした。
 
 
……自分を振り返って……第二回
                  

  ■父の涙を見た日■
 
 家は豆腐屋だったことは言いましたよね。だから、倉庫には原料の大豆が積んでありました。我が家の家鼠はそれを食っているから丸々としてデカかった。父は近所から借りてきた空気銃でその鼠を仕留めていました。床に腹ばいになって鼠が出てくるのをジーッと待っている格好は、満州の平原で銃を構えている兵隊さんに見えて、頼もしく思えたことを覚えています。
 
 リレーの話に戻りますが、ぼくは、本来は足が速い方だったんですね。高校へ入ったぐらいから、短距離の成績が良くなってきて、俳優養成所のことはあとで話しますが、その養成所に行っていたころの運動会やら、その後渋谷に住んでいた頃の町内会の秋の運動会では、賞をもらっていましたからね。
 
 芝居に目覚めてから、たしかに性格が変わってきたんだと思います。気が小さいとか上がり症だとかはいまも身体のどこかに棲み着いてはいるんでしょうが、そんな性格は嫌だという意志のほうが強くなって、かえって気だけは強くなったみたいです。その後、天性の気の強さから、かなり酷(むご)いことを人に言ってしまうんです。でも、そのあとでよく言うんです。「おれは、打ち強いけど打たれ弱いから大事にしてね」って。
 
 いま、父の話をしましたが、ぼくの父は頑張り屋の、実直で律義な人でした。だれの父親もそうだと思いますが、ぼくの父も実に優しい人でした。でも、口下手ですから、おしゃべりじゃありません。悲しそうな顔も見せたことがありません。ましてや、父の涙を見たことなんかありませんでした。
 
 ところが、ぼくが小学二年生のとき、家のタンスから何回も百円札を持ち出して友だちと買い食いをしていた時期があって、それが発覚したとき、顔がゆがむほど父に殴られました。小遣はちゃんともらっていたんです。母は父の折檻を止めたかったんでしょう。しかし止めることはしませんでした。
 
 そんな怒り狂ったような父を見るのははじめてでした。恐かったです。ぼくは「かあちゃん。かあちゃん」と助けを求めながら泣き叫んでいた。母は父の怒りが納まったところで、ぼくを横にしてくれて、氷で顔面を冷やしてくれました。目をつむり、しばらく眠った後目を開けたら、横たわっているぼくの傍に同じように寝そべって、涙をぽろぽろこぼしている父がいました。「もうこんなことはするなよ。殴ってごめんな」ということをしきりに言ってくれました。
 
 そのときの父の思いがぼくの中にずっとあって、いまも忘れることができません。自分が父親になったとき、子どもにあれほどの思いを伝えることができるのかなぁと思いました。そんな大人になれるのかなぁ、とも思いました。なりたいなぁ、という気持はありましたし、いまもあります。
 
 それで思い出すんですけど、私の子どもが小学校高学年のときに他愛のない万引きをやったことがあるんです。そのとき、父の真似をしている自分がいました。真似ているだけで、あのときの父の思いには届きませんでした。もっと言えば、厳格な父親を演じようとしている自分がいるだけで、ものすごく後味が悪かったのを覚えています。
 
 
 
■佐藤範子さんに謝りたい■
 
 それと、ぼくはかなり短気というか、怒りっぽいというか、そういう人間らしいのです。そんなこと自分では思ってみたこともなかったし、人に言われたこともなかったんですが、それを指摘されたのは、小学校六年生のときでした。仲良しの猿によく似た友だちがいたんです。遠足のとき、同級生の女の子たちが、ぼくと一緒にいたその友だちのことを「さるッ、さるッ」って言っていたことに他人事ながらぼくが腹を立て、手元に落ちていた石ころをついつい女の子のほうへ投げたんですね。言われている本人は別にどうってこともなかったのに。その石ころが、はずみで女の子に当ってしまった。女の子は、おとなしい子で、ぼくが一番好きな子だったんです。佐藤範子さんというんですが、石ころが額に当って、額がちょっと切れました。
 
 そんなことがあって、その学期の通知表に担任の八田先生は「短気だから、くれぐれも気をつけるように」と書かれました。そのとき以来、自分は短気なんだと意識するようになったんです。いまはたしかに自分は短気だと認めています。人間というものはそうは変われないものですね。八田先生が通知表にお書きになったことは間違いなかった。
 
 二〇〇七年の四月、五年ぶりの同窓会で先生とお会いできました。まだまだお元気です。先生が挨拶でおっしゃったことに「自分たちは良き時代に教師をやれてよかったと思います。道で人と会っても、どこの家庭に行っても、先生、先生と丁寧にご挨拶していただきました。いまの先生が気の毒に感じます」というお話がありました。八田先生の変わらない人柄を見て、頭が下がる思いでした。人はいいとこも変わらないもんなんですね。
 
 じつは、機会があったら佐藤範子さんに謝りたいのです。いろんな人に聞いたんですが、佐藤さんの消息が分かりません。残念です。もしこの話が伝わってあなたに届くことがあったら、佐賀の神野小学校六年梅組だった辻萬長がごめんなさいと言ってます。許してください。
 
 
 
■ガキ大将の教え■
 
 ぼくが少しずつ気が強くなるきっかけになったのは、近所にいた「絵に描いたようなガキ大将」のせいだったと思います。いや、お陰です。
 
 そのころの子どもたちは、中学生から小学校へ入る前の子どもまで、みんな一緒に遊んでいました。そうすると、そこには自然と、規則というか決まりというか、ルールができます。大きい子の言うことは絶対ですし、それを聞かなければ遊んでもらえない。その代わり、年長の子は小さい子を守ってくれる。そこには縦の序列もできます。序列を決める“試験”もあるわけです。
 
 たとえば、木に登れない子は上にはいけないし、蛇を手掴みできなければ弱虫扱いされる。市場へ行って、サツマイモでもマクワウリでも、くすねてくることができなければ尊敬されない。川遊びでも、顔を水に浸けられなければ遊んでもらえませんね。でも、もし溺れたら年長のものが助けてくれるわけです。ぼくも何度助けられたかわかりません。
 
 ちなみに、市場での万引きのやり方知ってますか。帽子をかぶっていくんですが、野球帽じゃできません。登山帽のような形がいいんです。でも、子どもがそんなもの持っているわけはないから、だいたい父親の帽子です。子どもが被っていたらやっぱり大きかったと思いますけどね。まあ、それはさておき、やり方ですが、帽子をエモノ(さつまいも、ウリなど)の上に落とすんです。そして「あっ、オッチャカシタ(落とした)」といって帽子を拾い上げるんですが、そのときにエモノも一緒に持ち上げて持ってくる。ざっとこんなふうでした。それを木の上の陣地で食べるんです。まあ、市場の大人たちはたぶん気がついていたと思います。でも、食べるものも少なかったころですから、見逃してくれていたんでしょう。
 
 ぼくの小さいときにいたガキ大将は、おそらく稀に見る能力の高い子どもで、あらゆることができるガキ大将でした。そのガキ大将によって、生まれついての負けず嫌いや気の強さというものをぼくは引き出してもらったような気がしています。
 
 近所のお寺の和尚さんには、ガキ大将のお陰で何回も追っかけられました。墓石の上でメンコ(佐賀では「ぺちゃ」と言ってました)をやったり、木のてっぺんに隠れ家を造ったり、柿の実や、椋(むく)の実をこっそり食べてしまったり、怒られる材料にはこと欠きませんでしたね。大人たちも、自分の子どもはもちろんですが、よその家の子どもであっても自分の家の子と同じように平気で怒ったんです。怒られた子どもも、それにめげることなくいたずらをつづけたし、実に健康的(?)な時代だったです。和尚さんの名前は「あつし」といいました。で、ぼくらは「あつしがきた!」と叫んでは逃げ回っていました。
 
 その他にも、おもしろいこと、悲しいこと、うれしかったこと、悔しかったこと、いろいろありました、子どものころは。