「結婚の条件」
あの日バスの中で見た光景は、気持ちの良いものではなかった。
私が住んでいる団地から、駅前の繁華街へ向かうバスは、一時間に三往復走っている。
駅前までは25分ほどの行程で、停留所が12あり、走っている時間より乗り降りに時間が取られる路線だった。高齢者の利用が多い地域なので、余計に時間がかかるのかもしれない。
あの日も駅ビルで買い物がしたくて、私はバスに乗った。
乗って三つ目の停留所、郵便局前で車いすを使っている男性がバスを待っていた。
バスの運転手は対応するために運転席を降り、車外に出て、下車口にスロープを取り付ける。仕事とはいいながら、ご苦労様なことだと私は感心している。
ところが、その時の運転手は、運転席を立つ時、舌打をした。
「チィ!」と。
そして、足音荒くバスを降り、がしゃがしゃと音を立ててスロープを広げた。
バスの前方に乗っていた私には、彼の不機嫌さが伝わった。
小雨が降ってたとはいえ、何とも不快な対応だと思った。
思わず私は、運転手の顔を凝視した。
驚くほど、端正な顔立ちの青年だった。
(ハンサムな人は、やっぱり短気なのかしら)
と、私は、勝手に納得していた。若かったころの夫を思い浮かべたのだ。
それから数日後の日曜日。
孫の彩未が遊びに来た。
「珍しいわね、彩ちゃんが遊びに来てくれるなんて。丁度良かった、サクランボを沢山もらったのよ。食べてちょうだい」
私は、嬉しくて、気持ちが弾んだ。
「おじいちゃんは、例によって草野球の応援でいないのよ。お昼も友達と食べてくるって」
夫は、若いころから野球が大好きで、職場の仲間で野球チームを作っていた。退職した今も、日曜日には朝からグランドへ出かけて行って、応援をしている。夫にとっては、良いストレス解消なのだ。
「そうだと思った。ちょうど良いのよ、おじいちゃんがいなくて。おばあちゃんに話があって来たんだから」
彩未が、私に話があるとは珍しい。
「はい、おみやげ」
そういって、ダイニングテーブルの上に載せた箱には、モンブランが二つ入っていた。
「ルノワールのモンブラン!高かったでしょ、お金あげるわよ」
「いいよ、無理のないところで、二つだけ買ったんだから」
そういって笑う彩未の笑顔が、愛おしい。
とりあえず、ケーキを食べながら、彩未の職場の話や家族の愚痴を聞いた。
「ところで、話って何?お金、困ってるの?」
そう私が切り出すと、彩未ははじけるように笑った。
「やーだ、おばあちゃん。お小遣いねだる年じゃないわよ、私」
彩未は、事務員として整形外科のクリニックに努めている。
「あたしね、『結婚を前提に付き合ってください』って言われて」
そういいながら、彩未は携帯電話の画面を見せてくれた。お相手の写真だった。
「まー、ハンサムな人!」
「ねー、イケメンでしょ。春君」
「春君?」
「うん。武田春馬君。バスの運転手なのよ」
私は、言葉がみつからからなかった。
写真の青年は、あのバスの運転手だったのだ。舌打をしたあのハンサムボーイ。
彩未の声が弾む。
「春君とは、高校の時の同級生でね。でも、付き合ったりとかじゃなくて、私が一方的にあこがれていたの。あたし、すごーく好きだったけど・・・結構春君は人気があって」
「そう、ハンサムだものね」
私は「ハンサム」と繰り返して、相槌を打った。
「でも、春君が人気が有るのは最初だけ。書道部で地味だし、キレやすくて、感じ悪いから」
「あらあら」
「でも、あたしはそれでも好きだった。あたしテニス部で忙しかったし、卒業してすぐに東京の専門学校に行ったから、友達になるチャンスはなかったけど」
以前からキレやすい性格だったと聞いて納得したが、それでも好きだというのは…。
「でも、優しいところもあるのよ。春君が乗務していたバスに乗ろうとしてたお婆さんが、バスのステップ踏み外して転んじゃって。春君が親切に対応して、お婆さんはうちの病院へ来たのよ。春君は勤務が終わってからも病院へ顔出して。凄く責任感がある人だと思って、顔をよーく見たら、春君だったの!奇蹟の再会よ」
(小さい町だから)という言葉は飲み込んで、
「運命だね~」と、私は言った。
彩未は完全に舞い上がっている。嬉々とした孫の顔を見るのは幸せだ。でも…。
「お母さんに、『春君は気が短い』って話したらね、お母さんったら、『やめときなさい』っていうのよ。短気な人と暮らすのは大変だって。おばあちゃんみたいになるよって」
おばあちゃんみたいになるは言い過ぎだが、気難しい父親で娘も苦労したのだと思う。
「それで、相談に来たの?」
「そう、そうなの。確かにおじいちゃんは今でもキレやすいし、いつもおばあちゃんを怒っているし。大変だな~って思う」
確かに私の日々は気苦労が多い。
「でもね…」
彩未はサクランボを摘まんだ。
「おじいちゃんとおばあちゃんは仲良しに見える」
と、サクランボを口に放り込んだ。
何と言ってやろうか、私は困った。
「仲良しでもないけどね…」
彩未が、プイとサクランボの種を吐き出しながら、
「でも、好きなの。春君が大好きなの」
と、私の手を握ってきた。
私は、そっと握り返しながら言った。
「好きな人と結婚出来たら、幸せだよ」と。
そして、
「そうだ、お昼にお鮨でも取ろうかしら」
と、言ってやった。
幸せそうな孫を祝福しないでどうする。
「やった!あたし、特上の大盛り。あたしがお寿司屋さんに電話する」
彩未は幸せになる。少なくとも、私ぐらいは幸せになれる。好きな人と結婚するのだもの。
「ところで、春君が書道部って、どんなこと?」「春君、書道が上手いのよ。いつも入選して
いて、プロ並みの腕前なのよ。高校の時から書道塾でバイトしていたし。書道が大好きなんだって。でも、結構書道ってお金がかかるらしくて、それでバスの運転手をしてるの。バスの運転も好きなんだって。好きなことしか続けられないんだって、春君は」
「それで、好きな彩ちゃんと結婚したいの?」
彩未は、テーブルを叩いて、大笑い。
幸せいっぱいの笑い声が家中に広がった。
|