辻邦の棚   短編集
  
 

  「流し」の前で」    辻 邦

 

 「あー、嫌だ、嫌だ!」

 そう言いながら、友子は「流し」の前に立った。

夕食の片づけをするときの、口癖だ。 

 「嫌なことは、何にも無いけれども」 

 友子の目の前には、十四人分の食器が山のように積み重なっている。

 「嫌なことは、何にもない」

 そう言い切って、友子は洗い桶に水をためた。

 今日は、友子の誕生会で、子ども達が家族連れで集まってくれたのだ。楽しい宴の名残の片

づけ。

 「嫌なこと、有るわけ無いじゃない」

 と、友子は食器をすすぎ始めた。

 友子は、夫の幸彦に大学二年生の時出会って、直ぐに子どもを授かって結婚した。

 学業を続けたかった友子は、幸彦が提案した「幸彦の実家で幸彦の両親と暮らす事」を承諾

。以来この家で、五十一年間暮らしている。

 義母は、当然のように、食事作りを一手に引き受けてくれた。料理の上手な人だった。

 友子の家事分担は、夕食後の台所の片づけになった。

 朝晩、ご飯を作ってもらって、弁当まで持たせてもらっているのだから、夕ご飯の洗い物ぐ

らいするのは当然だが…。

 「あー嫌だ、嫌だ!」

 と、いつも心の中で叫んで、友子は「流し」の前に立っていた。

 夫の幸彦は、アルバイトをしていて帰宅は深夜だったし。

 「あたし、洗い物が大っ嫌いなのよね」

 と一人愚痴りながら、台所を片付けてきた。

 年子で娘を二人生んだ友子は、六年かけて大学を卒業して、市役所に勤め口を得た。

 二年早く卒業した幸彦は、県庁の職員になっていた。

 友子夫婦にとって、義母の助けは暮らすうえで不可欠だったので、地元での仕事を選んだの

だ。

 勤めながら息子を出産して、友子は、三人の子持ちになった。

 年月は経ち、子ども達は結婚して家を出て行き、義父母と友子夫婦の四人暮らしになって間

もなく、義母が病に倒れた。そして、義父も。

 幸彦は、災害支援で他県への出向で単身赴任、介護は、友子一人の負担だった。

 夕食の後片付けは、一日の終わりの仕事ではなく、長い夜の介護の始まりになった。

 これまで世話になった義母への恩返し、「嫌だ、親だ」を声にも出せず、溜息をついた。

 と、昔を思い出しながら手を動かしていたので、食器は、最後の小皿一枚を残して、総て食

洗機に収まっていた。

 友子は、寿司の飯台の洗浄に取り掛かった。

 家族の集まりの時の献立は、手のかからない手巻き寿司と決めている。

 義父母を看取って、夫も定年を迎えて、今は夫婦二人きり。水入らずの日々。

 「これが大変なのよ。あー、嫌だ、嫌だ」

 ごしごしとたわしを持つ手に力を入れて飯台を洗う。

 友子は幸彦と、趣味が合わない、好みが合わない、会話が辛い。

 大家族だからやってこられた夫婦関係もあるのだと初めて知った友子だったが。

 「友ちゃん、もうすぐ終わるの?」

 リビングでテレビを観ている幸彦の声。

 「あと少しよ」

 飯台の水を切って、出窓に立てかけて、蛇口の周りを拭き上げてと、友子は手を休めない。

 「じゃー、コーヒー淹れるね」

 幸彦は立ち上がった。

 「うまいコーヒーを淹れる」のが、今の幸彦の家事分担なのだ。

 「今夜も、製作するの?」

 「そうね、展覧会が近いから」

 友子は、孫育ての手伝いをしながら、油絵を描き始めた。幸彦との会話の行き詰まりの打開

策。

 絵を描くことは意外と向いていたらしく、市民展に連続入選している。

 昼間はあれこれと出かける事も多く、夜の時間に集中してアトリエに籠ることにしている。

 幸彦の淹れてくれるコーヒーは、夜を長くしてくれる特効薬。

 こんな日々に、「嫌だ」と言うのは罰が当たると、友子はすすぎ終えた布巾を干した。

                         

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