辻邦の棚   短編集
  
 

バスを待って…」

 

 バスが来ない。

 雨のせいで、道が混んでいるのだろうか。

 25日の金曜日で、混雑しているのだろうか。

 由美の気は急いた。

 「遅れるかもしれなっいって、メールしようかな」

 取引先の社長の奥さんに誘われて入ったコーラスの会の練習日なのだ。

会は、発表会を控えていて、今日は練習の追い込みだ。特別に頼むピアノの伴奏者も来る。

あと10分早く家を出てたら…

 1本早い準特急に乗れて、もう少し時間にゆとりが持てたのに…。

「でも、それは無理」

夫が現場から帰るのを待って、家を出るしかなかったのだ。実際、家を出る間際まで、客か

らの電話に対応していたのだ。

「コーラスなんか始めなかったら…」

金曜日の夜は、のんびりしたものだったろう。

だが、このコネクションは、小さな内装屋にとっては、捨てがたいのだ。

「うちの店の運命は、お前の歌声に掛かって居る」

夫のその言い分は、大げさだが、マンションやアパートの改装仕事を回してくれる間山不動

産との取引は、捨てがたい。その間山不動産の夫人が、コーラスの会の主催者なのだ。

間山夫人は、地域のコーラス連盟の会長であることから、自分たちの会を、際立って上手い

コーラスグループにしたいと思っている。由美は有力な歌い手なのだ。

「バス、遅いな」

と、急いた心に、すーっと引っかかる思いが浮かんだ。

 

四十数年前の思い出。

「あの時、バスが遅れてこなかったら…」

あの日もバスは、ずいぶんと遅れてやってきた。

やっと来たバスに、由美は慌てて乗り込んだ。

「あの時、あの事故が起こらなかったら…」

慌てていた由美は、バスのステップを踏み外し、すぐ後ろにいた年配の婦人にぶつかった。

そして、二人とも倒れてしまった。

由美のけがは大したこと無かったので、直にでもその場を離れたかったが、そうも出来なく

て…。

その夫人に付き添って、救急車の乗り込んで…。

由美は、オーデションに大幅に遅刻した。

 

歌手を目指して上京し、喫茶店でアルバイトをしながら歌のレッスンを受けていた由美に巡

ってきた幸運。

幸運になるはずのオーデションに遅刻するとは…。

喫茶店の常連客で、テレビ局に知り合いがいるという太田さんが、せっかく設定してくれた

チャンス!

「この業界、遅刻は厳禁だ」

太田さんに言われるまでもなく、由美にもわかっていた。

一世一代のチャンスを逃したことは。

 

(あの時、チャンスをものにできていたら…)

ちょちょっとテレビに出られていたかもしれない。

レコードの1枚も出せていたかもしれない。

そのキャンペーンで、地方のレコード屋をまわって…。

 スナックをまわって歌わせてもらって…。

どこかの街のスナックに落ち着いて…。

今頃はカラオケの先生をしていたかも。一緒にレッスンを受けていたノンコのように。

 

 チャンスを逃した由美は、あの時の夫人の息子に見初められ、結婚した。室内装飾デザイナ

ーの今の夫と。

 デザイナーとは名ばかりの小さな内装屋だが、子どもたちを育て上げ、親の世話をして、綱

渡りの日々だが何とかやっている。

「うちの店の運命は、お前の歌声に掛かって居る」

 というのは大げさだが、そう言ってもらえるのは由美も悪い気はしない。

実際、ソロも歌わせてもらっている。



 「あの時、バスが遅れてこなかったら…」

 思う間もなくバスが来た。

 

辻邦の棚  生田きよみの棚  青山和子の棚 
短編 長編 お薦めの一冊 
お薦めの一冊   短編  本の紹介 

   
 著者紹介  著者紹介 著者紹介 

       
 ご意見、投稿、お待ちしています
アドレス kuni@aktt.com
fecebook やっています。