「小さな家」
私が、いつか引っ越す「小さな家」。
海辺の町の丘の上の小さな家。
私は、海が好きです。磯の香りが好きです。
乾燥ワカメの袋の口を開けたとき、ぷーんと香るあの匂い、幼い時に嗅いだ記憶がよみがえり、嬉しくなります。
父さんを思い出します。
私が小さかったころ、父さんが海に連れて行ってくれたんです。
あれは、私が5歳くらいの時の事なのかな、私が小学校へ入った時には、もう父さんは居ませんでしたから。
母は、私を育てるために、朝から夜中まで、ミシンを踏んでいました。寝る間も惜しんで、働いて働いて・・・。
そして、壊れました。
母が働けなくなってからは、私がミシンを踏みました。小さいころから、私はミシンを掛けるのが得意だったんです。「門前の小僧習わぬ経読む」ですか。
ミシン掛けは、私の天職だと思っています。
最初のうちは、「八百清」の小父さんが持ってきてくれる内職仕事でしたが、中学を出るとすぐに、裏の縫製工場に入りました。今もミシンを踏んで、ワイシャツを作っています。仕事は、苦になりません。ただ・・・。
ただ、空が見えません、海が見えません。
窓のない作業場で。
海辺の町の丘の上の小さな家には、一人で住みます。
一人住まいですからね、大きな家は要りません。
台所とお風呂とトイレがついた一間で十分。
ベッドは部屋の隅へ置きましょう。
ベッドに横になると、ガラス戸越しに夜空が見える。
星が見える。
そんな家にいつか引っ越します…。
気力をなくした母さんは、気付け薬だといってお酒を飲むようになりました。
私が働きに出ているあいだ、飲み仲間を家によんで、楽しく過ごしているようです。
「あたしゃ、酔っ払いだけど、ぼけちゃいないからね」が、母さんの口癖です。
私にとっては、どっちでもいいことですが。
「あんたは、本当に親孝行な娘だよ」とも言います。
それはそうでしょう、酒代を払うのは私ですから。
虫の居所の悪い時の母は、嫌いです。
大嫌い!
酔っ払いが、私にからんできます。
「恨むなら、父さんを恨みな。あのろくでなしの男が、あたしとあんたを捨て出て行ったから、こんなことになっちまんたんだ。あたしとあんたの人生をメチャクチャにしたのは、父さんなんだからね」と。
私にとっては、どうでもいいこと。
私の人生をメチャクチャにしたのが父さんでも母さんでも、どっちでも構わない。
第一、私の人生メチャクチャじゃありませんから。
まじめに働いて、しっかり稼いで食べてますから。
そんな時、「海辺の町の丘の上の小さな家」を思います。
そうすると、心がスーッと軽くなります。
仕事を終えて、酒の匂いのこもったアパートへ帰って、酔いつぶれた母を寝かして、散らかった部屋を片付ける時、「海辺の町の丘の上の小さな家」へ心を飛ばします。
ほら、目の下に広がる家の屋根の向こうに、小さく光る。そう…海。
海に沈む夕日を眺めて、深呼吸だ。
ベランダに置いた寝椅子に座ると…。
ゆっくりと暮れてゆく夕闇が私を包んでゆく。
間も無く、満天の星空
母さんも、いつか引っ越す「小さな家」を持っていたら、壊れたりしなかったのかな
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