生田 きよみ の棚   読み切り
  
ジョセフィーヌ 

 夏の湿気を含んだなまぬるい風がミカの髪をゆらす。牧場の向こうの空はうすい赤色に染まっている。

「わあ、たくさんの牛!お姉ちゃん、もっと近くで見たいよう」

ミカの弟の健がミカの手を引っ張った。ミカはめんどくさいなあと思いながら坂を上がり牧場の柵まで歩いた。白地に黒い模様の牛たちは二十頭ほどいたろうか。草を食べたり、じっと立ち止まり鼻の穴をひこひことふくらませたりしている牛もいた。

「すごい、大きいねえ。この牛さん、お乳を出すんだよね」

ミカは早く家に戻りたかった。牛の糞の臭いがしたし、つまらなかった。でも、お母さんに言われたのだ。

「九月から新しい学校に通うんだから、通学路とか歩いてみたら?一日中家に閉じこもっていたらつまらないでしょ。健と一緒に散歩しておいで。お母さんも行きたいけど、引っ越しの荷物を片付けなきゃね」

 ミカは積み上がったダンボール箱を眺めた。

(なんでこんな田舎にきたの?お父さんのせいだ)

 ミカは腹立たしい。ミカのお父さんは東京の病院で小児科医として勤務していた。ここの診療所の先輩から電話があり、診療科をふやしたいから来てくれないか。地方の医療は住民の顔が見えるし、地域を支える大切な使命があるんだよ。やりがいがあるよなんて言われれたそうだ。

また、弟の健は赤ちゃんの時からひどい喘息があり、吸入器が手放せなかった。空気の良いところで過ごしたほうがいい、ちょうどいいタイミングだとお父さんはお母さんと相談して決めたのだった。

 ミカは五年生になり、夕夏ちゃんと離れるのはいやだといった。でも、お父さんもお母さんも転校するのも楽しいよ。新しい出会いもあるしといって、ミカの願いは聞いてもらえなかった。

(わたしのことより、弟を優先するんだ。今までもずっとそう)

三歳になる弟は可愛かったが、ミカはなんだかわりきれない。

「ゴホン、コホン」

 健が咳をし始めた。

「帰ろうか、健」

「いやだ、もう少し牛さん見てから」

 ミカは自分の気持ちをぐっとこらえて健の手を引いた。

「牛さんたち、もう、お家にはいるんだよ。ほら、あそこに牛さんのお家があるでしょ」

 ミカが小屋を指さすと、健は素直に歩き出した。

「あしたも来ようね、お姉ちゃん。牛さんバイバイ」

 健は小さな手をふった。

 牧場の横に店があった。(ソフトクリームあります)(新鮮野菜あります)と書かれたのぼり旗がひらひらとなびいていた。佐久間商店と書かれた店の前にカボチャやスイカ、ナスなどの野菜がつんであった。スーパーなんかなさそうだし、お母さん、買い物どこに行くんだろうと。そういえば、お母さんが言ってた。電動自転車を買ってあちこち探検するんだって。

 引っ越す前から、お父さんもお母さんも田舎暮らしを楽しみにしていたと、ミカは思い出した。

 

 今日は始業式。ミカは五年一組になった。始業式とクラスの係決めなどで午前中に家に帰った。健が待ちかまえていて、そばに寄って来た。

「お姉ちゃん、ぼくはね、あさってから幼稚園バスに乗って幼稚園にいくんだよ。バスにね、ぞうさんやたぬき、うさぎさんの絵がいっぱい描いてあるんだよ。いいでしょ」

「ふーん、よかったね」

 ミカは口先だけで言うと自分の部屋へ行った。机の横のサイドボードに置いてある水槽を眺めた。金魚が一匹、ゆっくりと泳いでいる。東京の時からこの金魚の世話はミカがした。

 一年生の子ども会のお祭りで金魚すくいをした。ミカは紙がすぐ破れて金魚を一匹もすくえなかった。夕夏ちゃんは二匹すくって一匹ミカにくれたのだった。一匹はきれいな赤色で尻尾がひらひらしていた。もう一匹はうすいオレンジ色。二匹とも四センチくらいの大きさだった。

 夕夏ちゃんはしっぽがひらひらしている赤いのをとり、ミカはオレンジをもらった。

「金魚すくいやスーパーでただでもらえる金魚はね、みんな病気をもってたり、売り物にならないやつなんだって。でもね、大切に育てると、たまにすごく大きくなって長生きするってよ。十年も生きるのがいるって、お姉ちゃんがいってた。大きな水槽と水草買わなくちゃね」

 夕夏ちゃんはなんでも知っていた。二人で金魚の名前をつけた。テレビのアニメに出てくるカッコいい女の子の名前がいいねと、紙に名前を書いていった。

「マリアンヌ、キャッシー、アンネット、シルビア、ジョセフィーヌ」

「わたしの子はマリアンヌにする。ミカちゃんは?」

「ジョセフィーヌにしよかな」

「この子たちがマリアンヌとジョセフィーヌだなんて、ふふふ。おかしいね。でもいいよね、わたしとミカちゃんだけの秘密」

 夕夏は口に人差し指をたてた。そして、やせたメダカみたいな金魚を見ながら二人でゲラゲラ笑った。

 それからしばらくの間、ミカと夕夏ちゃんはお互いの家を行ったり来たりして金魚を見た。夕夏ちゃんの金魚は赤味がまして尻尾のひらひらも伸びてますますきれいになった。

 ミカの金魚はどんどん太っていった。夕夏ちゃんはミカの金魚を見るたびに、水槽をつつきながらクスクス笑った。

「なんか、ジョセフィーヌじゃねえ・・・。おでぶちゃんとかのほうがぴったしだよね」

 だけど、ミカはジョセフィーヌでいいと思った。ミカが近寄るとジョセフィーヌはスーッとミカのそばに来て、顔を見るのだった。

 ミカはジョセフィーヌには何でも話せた。静かに聞いてくれるような気がした。

 夕夏ちゃんの金魚は冬に死んでしまったそうだ。夕夏ちゃんはそれ以来、金魚の話をしなかった。

 

 四センチほどだった金魚も今では十五センチにもなった。しっぽはまっすぐでリボンのようにたれさがってこなかった。体だけ太ってとても元気だった。

 引越しの時は大変だった。バケツに移し替えてミカの膝にのせてお父さんの車で運んだ。

車が揺れるたびに水がちゃぷちゃぷして心配だったが、どうにか無事に新しい家に運ぶことができた。水道の水を汲んで一晩おいてから、水槽に小石と水草を入れた。バケツから小さいタモで金魚をすくいそっと水槽に入れた。

 金魚は驚いた様子もなくすぐにすーと泳ぎ始めた。ミカがパラパラとエサを落とすといつものようにパクッと飲み込んだ。ミカは安心した。

 ジョセフィーヌを見ていると、夕夏ちゃんと一緒にいるような気がした。ジョセフィーヌに転校先の学校のことや、田舎は退屈なこと。まだ友達ができないこと。牧場があったことなど話した。

 

 十月になった。夜、お母さんが夕夏ちゃんの家に電話した。お母さんは田舎暮らしも楽しいこといっぱいあって、毎日新鮮よ。なんてずっと話していた。

やっとミカにかわってくれた。夕夏ちゃんは楽しそうにしゃべった。花村さんと塾にいくことになったとか、音楽会でピアノ伴奏することになったから、大変だよとか。山本くんは相変わらずずっこけてクラスのムードメーカーだよ。またこっちに遊びにおいでよ。待ってるね、と言うと電話を切った。

 ミカはもう夕夏とはちがうところにいるのだと取り残されたような気持ちになった。

「学校はつまんないよ。畑や梨畑、林ばっかり。でもねわたしのジョセフィーヌはすっごく元気。また大きくなったんだよ」

 と言いたかったのに、夕夏ちゃんの明るい声に気後れしてしまって何も話せなかった。

もしかして、夕夏は夕涼み会ですくった金魚のことなど覚えていないかもしれない。だって、夕夏ちゃんはの金魚のマリアンヌはもういないんだから。ジョセフィーヌのことも忘れたんだろうな、とミカは思った。

 ミカは寄って来るジョセフィーヌをじっと見つめた。

 

 学校からの帰り、ミカがいつものように牧場を通りかかると、同じクラスのまさるくんが店の前で野菜を並べていた。目が合った。まさるくんが近づいてきた。

「佐藤さん、いつもここ通るよね」

 ミカは戸惑いながらこくんとうなずいた。

「ここ、ぼくの家だよ」

 まさるくんがひとなつっこく笑った。日焼けした顔に白い歯がこぼれる。

「牛をかってるの?前から?」

 ミカは笑顔に誘われてきく。

「おじいさんの前のひいじいさん、そのまたひいじいさんの時から牛をかってるんだって。二十頭くらいしかおらんけど。野菜も作ってるんだよ。そうだ、佐藤さん、東京から越してきたんやろ。ぼくんちの牛乳から作ったソフトクリーム食べてみて。すっごくうまいよ」

「学校の帰りだし・・・・」 

 ミカがもじもじしていると、女の人が出てきた。

「まさる、無理に誘ったらだめだよ」

「おなじクラスの子、二学期に東京から越してきた、佐藤さんだよ」

「あんたかね、診療所の先生の娘さんは。村の若いママたち、すごく喜んでるよ。遠くの町まで子どもたちをつれていかなくてもよくなったってね。今度、お父さんやお母さんとおいで。おいしいソフトクリーム作ってあげるからさ」

 まさるくんのお母さんは手早くナスとキュウリをふくろに入れると、ミカに渡した。

「いつでも来いよ。牛の乳しぼりも見せてやるから。またな」

 まさるくんは手で勢いよく鼻をこすった。鼻の下に土がついてひげみたいになった。ミカは思わずふきだしてしまった。

 

 ミカは道々、ふくろの中をのぞいた。つやつやと光るナス、おしりにしぼんだ黄色い花がついているキュウリ。お母さん、喜ぶだろうな。まさるくんのお母さんが言っていたことお父さんにも話してあげよう。お父さん、ますます張り切って診療所に行くかな。

日曜日、みんなでソフトクリーム食べにきたいな。健は口のまわりにクリームいっぱいつけて食べるかな。帰ったら、ジョセフィーヌに報告しよう。

ミカの中で景色が生き生きと動きだした。

 


       
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