「この本」目次

1 ニルスのふしぎな旅  2 点子ちゃんとアントン 3 ママの銀行預金 4 若草物語 5 子供の十字軍
6 風の中の子供 7 ジーキル博士とハイド氏  8 母をたずねて

この本」8
「母をたずねて」   文・青山 和子 
                
デ・アミーチス・作 大久保昭男・訳(世界の名作文庫・ポプラ社)

 私が小学校に入学したのは昭和26年、当時は図書館はおろか、学校の図書室もなくて、教室の隅にある「学級文庫」と名付けられた本箱が全てだった。
 田舎のこととて貸本屋もなく、教科書以外の活字は学級文庫にある本だけで、運動も外遊びも苦手だった私はむさぼるように読んだ。
 夏休みに入るころには殆ど読み尽くして、よその教室へこっそり借りに行ったりした。
 四年生のときに出会った一冊が『母をたずねて』である。

 あらすじ    
 イタリアに暮らしている十三歳の少年マルコが主人公。貧しい家計を助ける為にアルゼンチンに行った母との音信が途絶えたことで、母をたずねてジュノバから船で南アメリカを目指して旅立つ。一カ月近くかかってブエノスアイレスに到着するが、母が奉公していた一家は既に引っ越していた。
 落胆したマルコだったが、そこに住むイタリア出身の人たちに教えられた、荷馬車を引いて移動する商人たちの手伝いをしながらツクマンに向かう。つらい二週間以上の旅の後、商人たちと別れて一人になったマルコは、歩きに歩いて引っ越し先のツクマンに到着するが、そこにも一家はいなかった。
 絶望したマルコは、二十数キロ先に、奉公先のメキーネスさんが住んでいると教えられ、再び森を抜けて歩き出す。
 そのころ、病気の母は手術を受けるよう説得されていたが、諦めの気持ちで拒んでいた。
 しかし、疲れきって埃だらけの息子に再開した母は、喜びとともに手術を受ける決心をし、結果的に助かったのだった。お礼を言うマルコに、若い医師は「しっかり者のきみが、お母さんの命を救ったのだ」と告げて物語はラストとなる。

 作者のアミーチスは、1846年北イタリアに生まれ、20代でイタリア統一の戦いに軍人として参加。若い統一イタリアの為に、少年たち若い世代への願いを込めて『クオーレ』を書いた。『クオーレ』は、一人の少年の日記が中心になっているが、「毎月のお話」として一カ月に一遍ずつ日記とは関係のない物語が挿入されている。なかでも『母をたずねて』は最も良く知られているだろう。1970年代にフジテレビでアニメ化され、多くの子供たちに届けられた

私が子供時代を過ごした1950年代は勿論テレビはなく、村に紙芝居もやってこなかった。楽しみといえば、月ごとに届けられる学習雑誌と友だち間で貸し合うマンガだけで、外遊びをしなかった私は、活字であればなんでも読み耽ったものだ。そこは、だれにも邪魔されない自分だけの世界だった。『母をたずねて』を読んでいるときは、マルコと一緒にハラハラドキドキしながら旅を続けていたのだろう。ちょっと切なく、懐かしい思い出である。



「この本」 7    辻 邦・文

「ジーキル博士とハイド氏」           スティーヴンスン・作       海保眞夫・訳(岩波少年文庫552

 この本について 

この作者ロバート・ルイス・スティーヴンスン(1850~94)の代表作の一つで、1886年に出版されたものです。スティーヴンスンはイギリスのスコットランドの出身です。彼の作品は、大人と子供の両方を読者として意識して書かれていたことが特徴です。「宝島」も彼の作品です。

 あらすじ    

弁護士アスタンは、依頼人のジーキル博士から預かった遺言書の内容が気になって仕方がなかった。ジーキル博士の死後、もしくは博士が行方不明になった時にはジーキル博士の財産総てをハイド氏に譲るというものだったからだ。
 アスタンの知る限りでは、ハイド氏ほど評判の悪い人はいなかった。良くないところに出入りしているという悪評だけではなく、ある時は人を踏みつけて大けがを負わせたというものだった。ぶつかって倒れた少女を助け起こすではなく、その体を踏みつけたという光景は、目撃した者の心を凍らせた。謝りもせず、その償いとして高額の小切手を差し出して恥じるところがなかったという。しかもその小切手の支払人はジーキル博士。
 「ジーキル博士はハイドにたかられている」
 その原因はアスタンの知るところではないが、これは、依頼人の由々しき問題だと、アスタンは調べることにした。と、ある晩。ハイドによる、紳士の虐殺事件が起こった。出会いがしらの紳士を持っていたステッキで滅多打ちにして殺したというものだった。ジーキル博士に確認しようにも博士が見つからない。博士の身に何が起こったのか?ジーキル博士はみつからないまま、博士の実験室でハイドの死体が発見された。そして、その真相を打ち明けた手紙を、アスタンは受け取った。その内容は…。

他人にも自分にも厳しかったジーキル博士は、その実、悪徳への欲求が強く、快楽を求める気質だったと書いてあった。自分の中に内在するその二つの気質を満足させるために、ジーキル博士は、別人になる薬を探し、作り出した。その結果、品行方正な医師ジーキルと見るもおぞましいハイドの二人の間を行きするようになったと。しかし、度重なる薬の使用で、変身が上手くいかなくなり、再度調合した薬の原料の所為もあって、ジーキル博士は、ハイドに飲み込まれてしまったという内容だった。

この本の語るところ

 人には、善を希求する心と悪に対する好奇心があります。

「気分が軽くなるよ」と薦められてマリファナを吸ってみる。気分アゲアゲで、さらに高揚効果のあるコカインに手を出す。いつでも辞められるはずだったのに、気が付いた時には麻薬中毒者になっていた。まさに、麻薬に飲み込まれたという例でしょう。こんなに大げさなものでなくても、パチンコ、麻雀、競輪、競艇、競馬などのかけ事。飲み込まれるとギャンブル依存症です。ネットでも、依存症になると怖いです。パソコン、アイパット、携帯電話。入口は身近なものですが、ショッピングで破産したり、メールの返信のトラブルに巻き込まれたり、ゲームの依存症になって…。欲望に飲み込まれることは容易い。食欲でもそうです。食べて食べて、太ってしまう。医者の助言も無視して食べて、病気で倒れる。誰にでも起こりうる誘惑です。いじめもそうでしょうかね。軽いからかいのつもりが、やってみたら楽しくて、周りからの反響も心地よくて、どんどんエスカレートしてゆく。怖いですね。

飲み込まれないように、自制しながらならやればよいのでしょうか?

負けない強い気持ちになればよいのでしょうか?

分かりません。欲望との戦いは、終生付きまとうことでしょう。

乗り切る知恵は…、良いコンパス(羅針盤)を持つことでしょう。人生の指針、価値観、その基準を持ちことでしょうかね。

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この本 6   辻 邦・文
「風の中の子供」 坪田譲治・作   (坪田譲治名作選 小峰書店)

 この本について 

この作品は、1936年昭和11年9月~11月東京朝日新聞夕刊に連載、翌年3月、武村書房より出版された本です。作者は1890年岡山に生まれで、1982年92歳で亡くなりました。早稲田大学文化予科で学び、「早大童話会」を創設。後年「びわの実学校」を主宰しました。日本芸術院会員

 あらすじ    

善太と三平はわんぱく盛りの兄弟です。悪戯を仕掛けあったり、喧嘩をしたり。二人のお父さんは、テープや紐を織る工場の専務でした。呑気にのびのびと暮らしていた二人に、思いがけない災難が降りかかりました。

お父さんが、重要な書類を偽造したと訴えられ、警察に捕まってしまったのです。

有罪は動かせない事実の様でした。会社を追われるだけでなく、家もすべての家財道具も会社に差し押さえられてしまいました。生活のめども立ちません。お母さんが、善太を連れて病院に住み込みで働くことになりました。善太も犬の散歩や雑用をするという条件付きです。幼い三平は、おじさんの家に引き取られてゆきました。おじさんは、三平を、大学を卒業するまで面倒みるといってくれましたが、おばさんは大反対。三平を厄介者だと疎みました。しかも、三平のおとうさんを犯罪者扱いして!三平は、やり場のない悲しみから、高い木に登って大人を驚かせたり、たらいに乗って川を下って遭難しそうになったり、沼のほとりから行方不明になって山狩りをする大事件になったり。とうとう三平は、家に戻されました。

それでも、先行きは暗澹としています。お父さんを非難する大人の目から逃れようと、善太と三平は差し押さえから逃れたブランコに乗りました。五六度ゆすると交代し、しまいには一度ゆすっただけで交代です。次には柿の木に登って、登ったと思ったら下りる。何度も繰り返し、膝を擦りむいたたり、尻もちをついたり。家の周りをまわる回る競争をして…。何でもいい、疲れきるまで動き回って気を紛らしましたが、悲しみは消えません。お母さんが川をのぞき込んで、うっとり笑ったときには、三平はもう一度おじさんの家に行くとお母さんに約束してしまいます。親子三人、疲れ果てていました。その時、一冊の古いノートが目に留まって…。その間からはらりと落ちてきたのが…、お父さんが偽造したと疑われている書類の元となった、本物の書類でした。「これで、お父さんの無実が証明できる」

ほんの十日間の出来事でしたが、一年にも思える激動の日々でした。お父さんは専務に返り咲き、平和な日々が戻りまし。

 メモ
  作者の坪田譲治さんは、「童話の考え方(8)」でこう書いています。

前略―ところで、私は、二十歳から四十歳くらいまで、人生の生き方なんて、むつかしいことを考えていました。ところが、四十になるころ、生活の方がさし迫った問題になりました。そこで、生活を、作品の土台にするようになったのが、『お化けの世界』『風の中の子供』『子供の四季』などの小説です。童話にも、小説にも、生活を題目にして描いたものと、人生を主題にして書いたものと、二つの型があることを知っていただきたくて、この文章を書きました。(「びわの実学校」14号)

この本の思い出
 この物語にも、「お化けの世界」にも、「差し押さえ」の場面があります。この物語は、小説ですが、これを読んだのは、私の小学6年生の時でした。そのころ、我が家にも、税務署の差し押さえが入りまして、テレビに赤紙が張られたことがありました。気取り屋の私は、(友達に知られたら恥ずかしい)耐えられない屈辱に思いましたが、善太と三平にも起こった事と自分に言い聞かせて、乗り越えました。
子供の傍らには必ず大人がいます。大人も様々で、様々な人生、生活、価値観をもって生きています。子どもが育つのにふさわしい環境でなくても、子どもはそこで暮さざるを得ません。でも、子どもは子ども。「フライドグリーントマト」という映画の中に「子どもには特別な神様がついている」というセリフがありましたが、子どもの愛らしさと天真爛漫な発想は、神様からの贈り物でしょうね。善太と三平も子供らしい発散の仕方で困難を乗り越え、お母さんを勇気づけました。私も勇気づけられました。

私は、生活を題目として描いた作品が好きです。なので、自分もそんなものを書きます。

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「この本」5       辻 邦・文
「若草物語」  ルイザ・メイ・オ―ルコット・作 矢川 澄子・訳  
(福音館古典童話シリーズ 25 1985年)

この本について 
 この物語の作者ルイザ・メイ・オールコットは、1832年アメリカのペンシルベニアに生まれました。ルイズの父親は哲学者で、先進的な幼児教育の実験校を作ったり、理想郷の建設に打ち込んだりして失敗。娘のルイザは、家計を助けるためにお針子や教師を務めたのち、30代半ばで作家になりました。終生独身で、55歳で生涯を終えました。

この物語の原題は「リトル・ウィメン」です。物語の主人公たちは、子どもでも、女の子でもなく、大人と対等な人格を持った存在だという意味です。その思想は、ルイザの父親の影響でしょう。この時代、女性が自立することは否定され、参政権もありませんでした。
 物語は、南北戦争時代81861年~1865年)物語に出てくる戦争は、この戦争で、軍は北軍の事です。映画化、舞台化もされ、今なお親しまれている物語です。

    この時代のおしゃれなファッション  

あらすじ    
 この物語の舞台となるマーチ家は、ボストン近郊に住む、中流家庭です。マーチ氏は、以前は、かなり裕福な暮らしをしていましたが、友人の不運を救おうとして破産。現在はつましく暮らす状況になりました。時は南北戦争勃発の頃。軍人として働くほどは若くなかったマーチ氏は、従軍牧師として前線に就いていきました。残されたマーチ夫人は、軍人援護会で、戦地に送る衣類の縫製をしたり、従軍した兵士の留守家族の世話をする仕事をしていました。家の事は、ばあやのハンナの仕事。ハンナは、寒い朝には温かいパンを焼いたり、来客のためにパイを焼いたり尽くしました。
マーチ家には、四人の姉妹が居ました。メグと呼ばれるマーガレット、16歳。ジョーと呼ばれるジョゼフィーン、15歳。ベスと呼ばれるエリザベス13歳。そして末っ子のエイミーです。
 マーチ家の隣家は、輸入業の裕福なローレンス家。気難し屋のローレンス氏は、姉妹たち、とくに三女のべスがお気に入り。陰ながら援助の手を差し伸べます。ピアノ好きのべスには、早くに死んでしまった孫娘の形見のピアノを贈ったほどです。ローレンス家の跡取り、孫のローリーもマーチ家が大好きでした。とりわけジョーとは気が合いました。
 マーチ家の長女、メグは、色白でふくよかで、きれいな手をした、器量よし。お針仕事が得意で、きれいなものが大好きでした。気持ちを抑えてはいましたが、贅沢への憧れを引きずっていました。上流家庭のモファット家に2週間招待された時の喜びはそれはそれは大きくて!ぜいたくな食事をしたり、立派な馬車を乗り回したり、毎日とっておきの衣装を着たり、お愉しみ三昧の生活の中にいるのを快く思いました。そして、貧しい自分を恥じるようになっていました。しかし、本当の価値観を見出し、自分の馬鹿さに気付き、「お金こそ人生の一番の目的だなんて思ってほしくない。しあわせで、愛されているなら、貧乏人の奥さんでもいい。心の誇りと平和な家庭が一番」というマーチ夫人の言葉に深くうなずきました。そして、地位も財産も無いけれど、メグを深く愛してくれる心優しいローリーの家庭教師ジョン・ブルックと結ばれました。
 次女のジョーはとてものっぽで、手足が長く、色黒で仔馬の様でした。言葉遣いも乱暴で、まるで男の様でした。実際、ジョーは自分が男の子に生まれなかった事を悔しく思っていました。本を読むのが大好きで、あれこれ思いついた事をやってみるのも大好きでした。時には迷惑なことで!
 メグとジョーは、お父様が破産するという窮地に立った時、「私にも働かせて下さい」と自立を申し出て、メグは家庭教師を、ジョーは大伯母さんの話相手の仕事を始めました。三女のべスは、並外れた恥ずかしがりやで、幼いころから学校へ行くことはせずに家で勉強する道を選びました。ピアノが大好きで、ハンナの手伝いも良くしました。エイミーは、末っ子らしい愛らしいところがある反面、少しうぬぼれ屋さんだとお姉さんたちには思われていました。絵を描くことが大好きで、自分の花壇には個性的な東屋を作っていました。熱心なクリスチャンである両親の教えに従って、心正しく、つましく、平和に暮らす姉妹。
 でも、娘盛りの四人には、次から次と試練がおとずれます。贅沢は良くないこととわかってはいるけれども…、きれいなレースもリボンも欲しい。みんなは絹のドレスを着ているのに…アイロンの焼け焦げのついたドレスでダンスパーティーに行った時の慌てぶり。つい見得に負けて、友達のドレスを借りてパーティーに出て、深く心が傷ついた事。様々な出来事を通じて、4人は成長していきます。
 クリスマスの朝、クリスマスの特別なご馳走を「貧しいご近所さん」に届けた話もありました。薪が買えなくて、火の気のない家で、一つのベッドに6人の子どもがお腹を空かせて寝ていたのを見て、四人は手を貸します。ご近所さんは、お母様とハンナの働きもあって、過ごしやすい部屋を取り戻す。でも、マーチ家はクリスマスのご馳走とはさようなら。新たに用意する経済的な余裕は、マーチ家にはありません。「今年は、クリスマスのご馳走は我慢」と思ったら…!素晴らしいクリスマスディナーが届きました。おとなりのローレンス家からのプレゼントでした。姉妹の様子をハンナがローレンス家のメイドに話して、その話を御当主のローレンス氏が小耳にはさんで・・・。
 これ以来、マーチ家とローレンス家は近しく行き来するようになりました。

 マーチ家にとって最大の試練は、マーチ氏が戦地で負傷したという知らせでした。急いで、ワシントンの病院へ駆けつけなければなりません。こんな時、経済的に頼れるのは、大伯母さんしかありません。沢山の嫌味と引き換えに少しのお金を借りたジョーは、その道すがら、大胆な行動に出ました。見事な自分の髪を売って、お金にしたのです。この時代、ショートカットの女の人はいません。「お父様に、この家を守ると約束したから」とジョーは毅然と言いました。が、その晩、ベッドで忍び泣きをしたジョー。
 マーチ夫人の留守は続きました。それほど、マーチ氏の容態は悪かったのです。

 その間に、留守宅にも困難が!
 優しい気持ちのべスが、マーチ夫人の代わりに、気の毒なフンメルさんの家に子どもの世話に行っていたのです。フンメルさんの家の子どもたちは、伝染病のしょう紅熱に掛かっていたのでした。赤ちゃんは、ベスの腕の中で死んだ…・当然、べスも発病して、生死の先をさまよいます。急いでワシントンから帰宅したマーチ夫人が見たものは…、衰弱しきった娘でした。幸い、ベスは一命をとりとめましたが、病弱な身になりました。

 エイミーは、学校に行っていましたが、些細なことで体罰を受ける羽目になり、マーチ夫人は毅然とエミリーを退学させました。「学校にお任せできません。この子は、私が教育致します」と。
 マーチ家の姉妹とローリーは、家庭新聞を出したり、庭にポストを設けて私設郵便屋を開いたり、思い思いの趣向で、夫々の花壇に花を咲かせたりと、心豊かな平和な日々を過ごしました。
 マーチ氏も無事回復して帰宅。そんな折、メグにロマンスが持ち上がり、姉妹たちは、成長のステップをもう一段上がります。

メモ
 この物語は、時代を超えてアメリカで支持されている物語で、何度も映画化され、舞台化もされています。日本でも文学座が舞台化しています。
 1934年に映画化された折のジョー役は、キャサリン・ヘプパーン。私が生まれていない時代の映画ですが、リバイバル放映されたものを観ました。知的なジョーでした。
 1949年に映画化されたものがもっとも有名でしょう。四人姉妹にスポットを当てた豪華共演でした。メグがジャネット・リー、ジョーがジュン・アリスン、ベスがマーガレット・オブライエン、そしてエイミーが新人だったエリザベス・テーラー。この映画は、クリスマスにはテレビで幾度となく再放送されていましたから目に焼き付いている人も多いでしょう。
 そして、1994年に映画化されたものでは、ジョーをウイノナ・ライダーが演じ、意志の強い感受性に満ちたジョーでした。この女優さんは、私のお気に入りで、劇場にはせ参じて鑑賞しました。ビデオで見ることもできます。

この本と私
 この物語は、私の生活に浸透していました。私は運動苦手の長女だったので、メグの様だと思われていましたが、心の中では「私はジョーだ!」と叫んでいました。思い付きを、後先考えずに実行するところはそっくりだったのです。善い行いも好きでした。身の回りの文房具と本を集めて、歳末助け合いの折地元の新聞社に届けて、新聞に写真付きで載った頃があります。その時のことを作文に書いて、助け合い作文コンクールで表彰されて、学校では「善行賞」をもらいました。それで私は、軽薄な自分を恥じました。だって、文具やノートや本を持って行ったお陰で、私は新しいものを買ってもらったんですから。良い子ぶりっ子だと思われないかとドキドキしました。が、すぐに忘れて…。今でも、上っ面のボランティアに励んでいます。幼いころから刷り込まれた価値観でしょうね。私の妹も同情しやすい性格ですが、ボランティアはしません。なぜかな? 

このお話のように、家庭新聞を作ったこともありました。勿論、長続きはしません。始めるのも早いけど、飽きるのも早い。というか…やりたい事、こうしたほうが良いという新たな考えが押し寄せて来て、動きださずにはいられないのです。私の両親は、その点に関しては、理解してくれていたと思います。眉をひそめながらですが、「またなんか始めるの?」と力を貸して…というか、お金を出してくれました。エイミーのように、絵と工作が得意だった妹と二人で、高校生の時、人形劇団を作ったり、紙芝居を作って日曜学校で演じて見せたり、手作り絵本を作って出版社を気取ったり!

私は、童心社さんで、紙芝居の脚本を数点書かせていただきましたが、子どものころの夢がかなったといっていいでしょうね。劇団に入って、山の分教場に芝居をしに行ったことがあるのも、夢がかなったということでしょうね。本が出版される機会を得たのも、夢がかなった!

お父さんお母さん、保護者の皆さん。子どもにとって、継続は力なりですが、継続だけが力ではありません。厭きやすいは嫌になることですが、飽き易いは満ち足りるだそうです。行動に移してみて、気が済んだと考えて、始めたことが続かないことも認めてあげてください。

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『子供の十字軍』  ベルトルト・ブレヒト著 矢川澄子・訳  銅版画・山村昌明

『子供の十字軍』を手にしたのは、四十代後半だった。

八十ページに満たない薄い本だったが、書かれている内容は重く、私にとって生涯手放せない一冊となった。どういうきっかけで求めたのか、二十年以上前のことで今となっては判然としないが、訳者である矢川澄子に依るところが多かったと思われる。彼女の視点と端正な文章が好きで、それ迄もいくつかのエッセイや翻訳された作品を読んでいた。
                     

 1939年、戦争によって家族も故郷も失くし、戦さを逃れてポーランドから平和の地を目指して、あてどもなく歩き続ける子どもたち。最後に五十五人が目撃されていると記されている。ページごとの文章は、簡潔に四行でまとめられ、感傷も装飾もなく淡淡と進行していくが、行間に滲み出る悲惨な状況は目を覆うばかりだ。
 道をたずねるために、負傷した兵士を介抱するが、「ビルゴライへ行け」と言っただけで兵士は死んでしまう。どの方角が正しいのかわからない子どもたちは、途方にくれたまま歩き続けるしかないのだ。途中、一匹の犬と道連れになり、その犬の首輪に“助けて!”のメッセージを残す子どもたち。
 逃避行を続けるなかで、少年と少女の幼い愛が育まれ、他の集団との争いや裁判、文字を覚えるためのささやかな学校や音楽会、さまざまな場面があるが、圧倒的な飢えと寒さは常に隣合せについて回る。繰り返される仲間の埋葬とお弔い。
 そこにはさまざまな階層の子どもがいる。皆それぞれに重荷を背負って、平和の地に向かって歩き続けるしかないのだ。
 ブレヒトは、文中であからさまな戦争批判をしてはいない。しかし、絶望的な状況のなか、歩き続ける子どもたちを克明に描写することによって、戦争の引き起こす残酷さに迫っているといえよう。最後の一ページ、農民に捕まったやせこけた犬の首にかけられた一枚の紙の札、“助けてください!”と書いてある。子どもの手で書かれた一枚の紙の札、それは一年半も前のことで、犬は飢え死寸前だった。これが最後の一章である。八十年後に読む私たちに届けられる重さは、現在も続いている理不尽さと無縁ではあるまい。

追記       辻 邦・文
この本について
 書いたのは、ベルトルト・ブレヒトで、ドイツの劇作家で詩人。演出家でもありました。1898年生まれで、この詩を書いたのは1941年ブレヒト43歳ごろです。代表作に『三文オペラ』『肝っ玉お母とその子供たち』『ガリレイの生涯』など。第二次大戦中はナチスの手を逃れて各国で亡命生活を送り、戦後は東ドイツに戻り劇団を設立、死去するまで活動拠点としました。ブレヒトは1956年59歳で世を去っています。

メモ   私は、若いころ演劇の勉強をしていたので、ブレヒトの戯曲は読みましたし、上演されたものも幾つか観ましたが、この作品は、青山さんに紹介を受けるまで知りませんでした。感銘を受けました。

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「この本」3  辻 邦・
「ママの銀行預金」キャスリン・フォーブス・作 赤城かん子・訳
(ポプラ社「あなたのための小さな物語17」「家族」より)
 
この本について
 この本の作者は、ノルウェイ系の移民のこどもとしてサンフランシスコで育ちました。1943年にこの「ママの銀行預金」という短編を発表して大ヒット。そこで、ママと過ごした日々をさらに書き加えて、「ママの思い出」という短編集を生み出しました。

映画、芝居にもなり、現在もアメリカで読み継がれているそうです。          

あらすじ(この物語は、一人称で書かれています)

私は、こどもだったころ、ガストロ街の小さなアパートに、両親と兄と3人の妹の7人で住んでいました。アパートには、ママの姉妹の4人のおばさんとママのおじさんも遊びに来ていました。懐かしい街…懐かしい家!懐かしいみんな!でも一番懐かしく思い出すのはママの事。
 毎週土曜日になると、みんなは台所に集まって、ママを囲んで、パパが持ってきた封筒の中身を数えました。パパはお給金を一週間分ずつもらいました。支払いも一週間分でした。ママは、銀貨を数え、山を作りました・「これが家賃。これが食料品屋さんへ。これが靴の修理代」私と兄さんが言いました。「来週、もう一冊ノートがいるの…」ママは、銅貨を少しわきによけました。私たちは、息をひそめて、銅貨の行方を見つめました。「それで全部かい?」パパの声にうなずき、ママは、「すてき、これで銀行へ行かなくてすむわね」と、にっこり笑いました。
 ママの銀行預金!これがあるから、つつましい暮らしも安心だとみんなは思っていました。うちには、「小さな銀行」もありました。きれいな色の箱にお金を貯めて入れてありました。病院代だとか薬代だとか、急に必要になったお金をそこから出します。兄さんが、上の学校に行きたいと思ったとき、小さな銀行では足りませんでした。でも、パパがたばこを辞めることにして、兄さんがアルバイトを探して、私もベビーシッターをすることにして、「ママの銀行預金」には手を付けずに済ませました。
 パパの会社でストライキが起きて、収入がなくなった時も、パパもママもアルバイトを探して、節約を工夫して、「大きな銀行、ママの銀行預金」には手を付けませんでした。力を合わせて困難を乗り切る、これはまるでゲームのようでした。
 私は大人になって、このママの思い出を描いた原稿が売れたとき、もらった原稿料をママにあげました。「ママの銀行預金にいれてちょうだい」といって。その時、ママがいいました。「銀行預金なんて無いのよ。私は銀行へ行ったこともない」ママは、私たちを安心させるために「銀行預金」を持っているふりをしていたんです。

メモ
 1949年公開の映画があります。名匠ジョージ・スティーヴンスの監督で、こうした家庭劇の中でも秀作という評価の映画です。
舞台は1910年代のサンフランシスコ。ノルウェイからの移民一家の物語で、K・フォーブスの自伝小説(『ママの銀行預金』)の戯曲化が原作。貧相な屋根裏部屋で一人の少女が、書き上げた原稿に目を通している。毎土曜の晩、父の給料を支払い別に分け終えると口癖に“ママの銀行預金に手をつけずにすんだ”と言う彼女の母を、その少女キャトリン(B・ベル・ゲデス)は暖かく回想する……。

 この本の思い出
 このお話は、小学生だった私の大のお気に入りの物語でした。私の人生を方向づけた作品です。テレビで放送された映画も見ました。映画館でも再放映されたのでしょうか、数度見た記憶があります。
この映画を見て「貧乏ってなんて素敵なんだろう」と思いました。正確には、貧しさに負けることなく力を合わせて暮らして行く仲の良い家族が素敵!なのですが…。お陰で、お金のない状況に陥った時、少しも恐れず、イジケルことなく立ち向かえたと思います。難点は、貧困に対して私には誤解が消えません。共感が薄いのです、頑張れば乗り越えられない貧困はないと思いがちです。子どもの頃、この作者の様になりたいと思いました。その結果、大人になったらなりたいものの一つに、作家がありました。このママのように、沢山の家族の世話をする人にもなりたかった。念願かなって、私は作家になりました。それも、貧乏物語の「頑張ろう!」文学です。もちろん、多めの家族の世話もしています。個人的なことはさておいて…。子どもに限らず、「物語」は読者にとって、人生の指針となる力を持っています。深い共感がより影響が強いと思います。だから、子どもたちには読書を楽しむ経験をしてもらいたいなと願います。

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「この本」  2   辻 邦
「点子ちゃんとアントン」エーリヒ・ケストナー作 池田香代子・訳(岩波少年文庫) 

この本について 

この本は、1931年に発表された本です。作者のケストナーは、詩人でもあります。ドイツ連保共和国ザクセン州の州都ドレスデン生まれ。この物語の舞台は、ベルリンです。昔のお話です、想像力を使って楽しみましょう。
この時代の車 

 あらすじ    
 点子ちゃんの本当の名前は、ルイーズ。でも、皆はあだ名の「点子ちゃん」としか呼びません。点子ちゃんって変なあだ名でしょ、生まれてすぐにはとても小さな赤ちゃんで、なかなか大きくならなかったから「点子ちゃん」ですって。いまは、普通の大きさの?女の子です。
 点子ちゃんのお父さんはステッキ工場の社長さんで、たいそうなお金持ちです。ベルリンの中心地に部屋数10個の大きな屋敷を構えています。立派な車も持っていて、専用の運転手もいます。女中さんは太っちょのベルトさん。そして、住み込みの養育係のアンダハトさん。養育係って?ママの代わりに、点子ちゃんにつきっきりで御世話をするというか…あれこれ言う人です。点子ちゃんのママはどうしているかって?お買い物に行ったり、美容院へ行ったり、友達とお茶をしたり、コンサートへ行ったり、パーティーへ行ったり、忙しいんです。
 アンダハトさんが、養育係になってからというもの、点子ちゃんは疲れているようで、日に日に顔色が悪くなっいきました。無理もないんです。それには秘密がありました。パパもママも、夜は外出です。太っちょのベルタさんが三階の自分の部屋に上がると、アンダハトさんは、点子ちゃんを着替えさせて外へ連れ出しました。
 ヴァイデンダム橋は、交通量の多い賑やかなところです。その橋の中頃で、「マッチはいかがですか」と哀れな声でマッチ売りをさせられているのが点子ちゃん。ぼろぼろの服を着せられています。傍で眼の見えない母親役をしているが、アンダハトさん。アンダハトさんは、点子ちゃんにマッチを売らせて儲けていたんです。何のために?アンダハトさんは、ボーイフレンドにお金を貢ぐために点子ちゃんを使っていたんです!そんなお金を平気でもらうボーイフレンドなんて、ろくな男ではないと誰でも気づきそうですが…。
 点子ちゃんは、変なことだなと思いましたが、パパとママが決めた養育係のすることだからそれに従うしかないと思いっていました。それに、橋で知り合った靴紐売りのアントン君と友達になっていましたから。アントン君に会うのは楽しい.
 アントン君の家は、点子ちゃんとは大違い。貧しい人々が住む町に住んでいました。ぼろいアパートの五階です。アントン君のお母さんは大きな手術をしたばかりで、ベッドから離れられません。お父さんも兄弟もいないアントン君の家では、アントン君が働いて、家事をして、学校に行ってと、一人で何もかもするしかありませんでした。家賃の工面までしなければならい。生活環境の違う点子ちゃんとアントン君ですが、気持ちが通じ合い、仲良しでした。
 ある晩、アントン君は、アンダハトさんが点子ちゃんの家の見取り図らしものをボーイフレンドへ渡すのを見て、ピンときました。「よくないことが起こるぞ!」
 アントン君は、太っちょのベルタさんへ電話して、「間も無く泥棒が入ります、用心してください」と伝えます。ベルタさんは、すぐに交番へ電話して、おまわりさんを呼び、自分は伸し棒を抱えてドアの後ろに隠れました。
 アントン君は、電話のあとすぐに、点子ちゃんのパパをオペラハウスに呼びに行き、点子ちゃんがマッチ売りをしている姿を見せました。
 点子ちゃんのパパの驚きといったらありません。すぐさま、アンダハトさんをとっちめて、家に引きずって帰りました。家に帰ってみると、またまたびっくり!家に泥棒が入っていたではないですか!幸い、太っちょのベルタさんの活躍で、泥棒達はおまわりさんに捕まっていましたが。

そして…。アンダハトさんは首になり、代わりにアントン君のお母さんが、点子ちゃんのお世話をして物事の良しあしを教えてくれることになりました。勿論「住み込み」でです。アントン君も一緒。アントン君は緑色の壁紙の自分部屋を持つことができるようになったんです。めでたしめでたし。

 メモ
 この物語には、各章の終わりに立ち止まって考えたことという作者のメッセージが書き添えてあります。「読み飛ばして構わない」という但し書き付きで。私は読み飛ばして、最後まで読み終わってから、改めて読みました。なかなか、感慨深いものです。たとえば、教室でカンニング時間があった。でも、罰を受けたのは当人ではなく隣の席の子だった。「だからみんなは、ほかの人のせいで罰をくらっても、そんなにおどろいてはいけいよ。それよりも、みんながおおきくなったとき、世界がましになっているように、がんばってほしい。ぼくたちは充分にはうまくいかなかった。みんなは、ぼくたちおとなのほとんどよりも、きちんとした人になってほしい。正直な人になってほしい。わけへだてのない人になってほしい。かしこい人になってほしい」と。
 ナチズムが台頭し始め」た時期です。

この本の思い出
 このお話は、物語を読む前に、小学6年生だった私は、ラジオドラマで聞いた記憶があります。夕方、連続で放送されるこの物語が待ち遠しくてたまりませんでした。嘘つきの家庭教師の言うことを信じる大人達に対して、「子どもの言うことを信じて」と悔しかった。家庭教師と泥棒であるボーイフレンドが悪だくみをして、計画を着々と準備する様子が物語よりも丹念に描かれていたのだと今回気づきました。ハラハラ、ドキドキの時間だったよ。

子どもが物乞いすることが日常的にある時代だったので、それなりにリアリティーがある物語でした。今も同じように読まれるかな…?でも、ケストナーが、子どもたちに次世代を託す願いと子どもを信頼する気持ちは伝わると思います。

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 この本 1  辻 邦・文
「ニルスのふしぎな旅」上下 ラーゲルルーブ・作 菱木晃子・訳(福音館書店)

この本について 
 この本は、1906年・1907年に出版された本です。(100年以上世界中で読まれています)
作者のラーゲルルーブは女性で、スウェーデン出身。この物語の舞台もスウェーデンです。

ラーゲルルーブは1909年ノーベル文学賞を受賞しました。
あらすじ    

スウェーデン南部の田舎に住むニルスは、わんぱくで、時にはいたずらが過ぎて動物をいじめてしまう少年でした。ニルスの乱暴には両親もほとほと手を焼いて困り果てていました。ニルスも、自分はお父さんからもお母さんからも愛されていないといじけていました。それでも、乱暴はやみません。

 ある日曜日の朝、教会にも行かないで、留守番を決め込んでいたニルスは、妖精のトムテを捕まえて悪戯を仕掛けました。とこらが反対にトルテに魔法をかけられて小人にされてしまいました。小人にされたニルスは、動物たちの言葉がわかるようになりましたが、普段ニルスにいじめられていた家畜たちがニルスに仕返しをはじめて、ニルスは大変!

 その頃、庭では、ニルスの家で飼われているガチョウのモルテンが、ガンの群れに「飛べない鳥!」とからかわれ、悔しくて力いっぱい飛び立ちました。それを見たニルスは、無我夢中でモルテンに飛び乗りしがみつきました。モルテンは、お母さんが大事にしている太ったガチョウだからです。逃がすわけにはいかないと思ったんです。

 これがきっかけで、ニルスとモルテンは、女隊長アッカの率いるガンの群れと一緒にラップランドを目指して長い長い冒険の旅に出かけることになりました。でも、人間のニルスには困難と試練の連続。ニルスが沼地の葦の茂みの間で寝ることができるでしょうか?何を食べたらいいの?ニルスはモルテンの翼の間で休ませてもらいました。生の魚も生まれて初めて口にしました。草の実、木の実、パンのくず何でも食べました。鳥たちの助けがなければ生きてゆけない。ニルスには感謝の心が芽生え、自分も皆の助けになろうと頑張りました。ニルスは人間の言葉が理解できるので大いに役立ったのです。

 その後、トルテに「魔法を解いてやろうか」といわれた時も、仲間たちとのラップランドへの旅を選んだほどニルスは冒険の旅に心惹かれていました。しかし、冒険に危険はつきもの、死にそうな目に遭ったのも一度二度ではありません。その度、ニルスは仲間に助けられ、ニルスも仲間のガンの命を救ったり小さな動物を守ってあげたりしているうちに、小鳥や動物に好かれ信頼される少年へと成長してゆきます。そして、帰宅の時が来ました。帰り着いた我が家に待っていたのは…?

お父さん、お母さんは?それは、読んでのお愉しみ。

 読者である私は、ニルスと一緒に空の旅と地上の旅を満喫しました。スウェーデン各地の様子。穀倉地帯あり、工業地帯あり、海辺の町あり。様々な人の暮らしとそこにまつわる昔話を楽しみました。昔は、巨人やトロルや妖精が住んでいた国です。興味深い話が沢山です。

 この本は、小さな物語がいくつも鎖の様に繋がった物語です。様々な物語それぞれが面白かったのですが、ひと際心に残ったのは「マガモのヤッロ」の話でした。かいつまんで紹介します。

東ヨーク平野にあるトーケルン湖は干拓される途中でした。でもなかなか湖の干拓は進みませんでした。湖は水辺にすむ生き物にとっては楽園でした。そこに住んでいた若いマガモが猟師の鉄砲に打たれ傷つき倒れたのですが、農家の奥さんに助けられヤッロと呼ばれそこに住み着くことになりました。恐ろしい猟犬のセサールとも心を通わせ、この家の三歳の男の子ペール・オーラと仲良くなりました。ヤッロがこの暮らしが好きになり始めたころ、湖に連れてゆかれ縄で縛られました。ヤッロはもがいて鳴き声を上げました。その声を聞きつけたマガモの仲間がやってくると!待ち受けていた猟師に打たれる…。ロッコは囮として生かされていたのです。その時、小さな人間(ニルス)がヤッロの縄を切って「ヤッロ、逃げろ」と逃がしてくれた。セサールもそれを見逃してくれたのです。でも、三歳のペール・オーラは、諦められませんでした。湖にヤッロをさしに行きました。ペール・オーラが居なくなったのを知った奥さんは、探し回りました。でも、日が暮れてもペール・オーラは見つかりません。悲しみにくれながら奥さんは考えました。(人間と他の生き物も変わりがないかもしれない。マガモも子どもを失ったとき心配だったろう)と。その時セサールが奥さんを外に連れ出しました。その先にいたのは、ペール・オーラでした。このことがあって、農家の奥さんと主人は考えました。(湖を干拓するのは有益なことに違いないけど…多くの生き物が住んでいるこの湖でなくてもいいわ)と。そして、干拓の契約にサインをしないことにしました。
メモ
訳者があとがきで、私が印象に残った章についてこう書いています。

一部抜粋「訳しおえたいま、とくに印象に残っている章があります。ひとつは、十九章のトーケルン湖の干拓をめぐる話です。地球環境の破壊が深刻化する現在ですが、すでに作者は百年も前から自然保護の重要性を説いていたのです。中略―あたかも作者自身が『人間もまた自然の一部であるのだから、おごり高ぶることなく、その知恵と勇気をもって、地上のすべての生き物のために考えてほしい』と、私たちに訴えかけているように思える。

この物語は、スウェーデンの初等教育の副読本、地理読本として書かれたそうです。1980年に日本でテレビアニメ化されて、何回も再放送がされたので、観た人もたくさんいるでしょう。私も、子どもたちと一緒にアニメも見ました。我が家の子供たちは、現在40歳から50歳ですから、お父さんお母さん世代ですね。

今回、私が読んだのは、福音館書店刊(上巻515ページ下巻533ページ)分厚いものですが一気に読めます。地元の粕谷図書館で借りました。今でも現役の本なのでしょう。

この本の思い出

「この本」の一冊目にこれを選ぼうと思ったのは、突然心に浮かんだからです。

すっかり忘れていましたが、この本は、私が自分で選んで買った最初の本でした。小学4年生の時、私は東京都千代田区立「番長小学校」に通っていました。その1学期が終わった日、「夏休みだぞー」と学校の昇降口を出たら、目の前に、本屋さんの出張販売の露店が出ていたのです。夏休みにお読みなさいと言わんばかりに、数々の本が並べられて…。お金をどうしたかは記憶がありません。大急ぎで家まで取りに帰ったのでしょうか?私は越境通学で、今でいうJR信濃町というところから隣駅の四ッ谷まで歩いて通っていたので、片道30分はかっていたと思いますが、走って取りに行ったのでしょうかね。いろいろ並んだ本の中から、私は地味な表紙の、上巻下巻に分かれた長い物語の「ニルスのふしぎな旅」を選んだ記憶は確かにあります。子どもが買うには、安くない買い物だった覚えもあります。

今回調べたところ、1953515日発売の八崎源九郎訳「ニルスのふしぎな旅」上下(岩波少年文庫)というのが出ていたという記録が見つかりました。きっとその本を買ったのだと思います。

長い夏休みの間に楽しみながら読んだのでしょうか?いいえ、多分その日のうちに、「ご飯も食べないで」と叱られながら、「早く寝なさい」といわれても、一気に読み切ったのだろうと思います。私は、今回もそうしてしまいましたから。


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